肉体の復活 パート II 「師としての肉体」

 

肉体の復活 – パート II

「師としての肉体」

 ヘルマン ヘッセの『東方への旅』の主人公であるHHは、ひどく驚いてしまいました。仲間と共に東洋の謎の探求をする – 究極の真実を探す – 目的の旅は失敗に終わったのですが、その旅の間、HHが必要とする全ての世話をしてくれた忠実な召使いのリオこそが、いつも変わることなき真実の宝庫でいてくれたことが、何年も後になって分かったからです。私たちも、私たちの貯蔵庫となってくれているものに同じ驚きを持つことになるかもしれません。私たちの肉体は、私たちが耳を貸したくない時であっても、いつもよき忠実な召使いであり、私たちの必要に仕えてくれています。私たちが分離して人よりも優越感を覚える必要に駆られると、私たちは身体に非難を浴びせかけます。主な宗教のどれであっても、肉体は罪深く裏切るものであり、そのため罰に値するものとして身体を非難しています。おそらく、私たちは長きにわたって自己欺瞞を働いてきたのでしょう。HHと彼の仲間たちのように、私たちは究極の真実を捜し求めるのに間違ったところばかりを探してきたのではないでしょうか。もしかすると、身体-マインドというものが、常に目覚めるための導き手であったのかもしれません。プレゼンシングによって、肉体は私たちの意識を育てる道具として与えられたものとなり、存在性という謎を捜査する術となってくれるのです。もしやボディワーカーは、肉体の復権において直接的な役割を手にしているのではないでしょうか。

クライエントが身体症状を報告してくれる時、よく注意してクライエントの言葉に耳を傾けると、苦しみに恐れが関連している言葉をしばしば耳にします。外的な原因や責めるべき人がいない場合、クライエントはヨブのように自分を責める羽目に陥ります:「私が何か間違いを犯したから、そのために罰を受けているのだ」とか、あるいは「何かが間違っているに違いない。私にこんな罰が当たっていいわけがない」というように。これらが、隔絶された自分を強調していることに気づいて下さい – クライエントが自分の身体症状に入り込んでいけるよう手助けすると、ことは変化し始めます…まず起こってくるのは、責めるということが消えていくのです。症状それじたいが、クライエントと私たちを意識のより深い経験へと手招いてくれているかのようです。私たちは敷居をまたぎ、私たちの思考や記憶によって予め定義づけされていない通路を伝って入り込んでいきます。(プラクティショナとクライエントの)症状に対する嫌悪感が後退した時に、私たちはこの新たな場所へと入ってきたことが分かります。

 

私たちは、プレゼンシングの技法を用いて入っていきます – 身体の知覚できる感覚をプレゼンシングし、ついに身体-マインドという楽器を繊細にチューニングするのです。ルミは、私たちの魂、あるいは私たちの存在と呼ぶものの解剖学を測るために楽器を使うのだと言いましたbuckhornsunrise2プレゼンシングの実践に適応するなら、私たち自身の身体-マインドでできた楽器の各段階と用い方を学び始めるということになるのです。自分でこうした使い方を探求していくうち、存在性へと向かう旅を手助けしてあげたいと思えるような人たちのための
よりよい同伴者にもなってゆけるのです。共に、ボディワーカーとプレゼンシングのクライエントとして、私たちはそうした新たな認識へと入っていきます。身体の信号、特に症状は、信頼に値する通路となってくれるのです。

 

プレゼンシングにおいて思考は、観察と好奇心、内的な認識論のようなものに向かっていくようトレーニング(再教育)されます。マインドが身体の声明(コミュニケ)に多大な注意を払うと、結合された情報、身体とマインドはプレゼンシング(presencing)、先んじた感覚(pre-sensing)の経験を生み出します。瞬間から瞬間への観察は、問題解決や原因と結果の理論よりも深遠なレヴェルを生むのです。今や私たちは、クライエントと共にこの旅をしつつ共に歩んでいく新たな方法を学び始めているのです。

では、「肉体の復活」というのは何を意味するのでしょうか。第一に、身体-マインドはプレゼンシングの過程において変化させられます。そうした変化は、クライエントにもプラクティショナにも識別できるものです – プラクティショナは組織反応として変化を触知でき、クライエントは内受容(固有受容)感覚的に感じられます。身体の知覚できる感覚を通して瞬間ごとに観察することにより、マインドの中心は抽象的で隔絶的な知性から思いやりと包含的な感覚へと変化します。思考は、行き当たりばったりの自己中心的なものから、秩序ある、心が中心のものへと展開します。起こっていることを認識し始めると、身体は新VictorianValley1たな意味を取り始めます。自分の思考が感覚する自己(sensing-self)から現れてくるのを感じ、またさらに深いものが起こっているのを感じます。この思考のマインドは今、感覚の身体と同調して活動しているのです。思考と感覚が同時に沸き起こり、どちらも相互的な確証
の中、身体で感じられます。感覚される思考のこの確証は、身体-マインドにおいて変化を生み出します。それらの変化は、身体の中での副
交感神経優位の反応などに伴われるようであり、それは、身体-マインドにとって深遠な充実感と変容をもたらすものになります。

この変容は、意識的なマインドにおける覚醒(en-lighten-ment)と呼ばれるものに対して、身体での組織変化として感じられている可能性があります。今や身体-マインドの経験は全てがみずみずしくて新しいものとなり、防御や後ずさりといった古いパターンを手放すことで身体が反応するのです。意識的なマインドが経験の証人として身体に入り直す時、身体のシステムは新たな生命力を持って反応します。洞察が生まれ始めますが、それは生命から抜き取られたものではなく、むしろ生命に参加するところから生まれてくるようです。身体に光を当てることと変容させることには時間を要しません。事実、時系列の時間が、プレゼンシングとともにカイロス(意味ある無時間的な瞬間)へと変化するのです。すると時間は共-創造性の媒体になります。身体-マインドはそれ自身の共-創造性に参画しています。経験がカンヴァス(画布)であり、時間と行為は媒体であり、そして感じられる感覚あるいはプレゼンシングが表現となるのです。プレゼンスと共に肉体が復活するとき、時間は、私たちの隔絶された人生の杓子定規な統治者ではなく、すべての生命である生きとし生けるもののための召使いとなるのです。butterfly_Pinkflower

Presencing Issue #11-1 肉体の復活 I

肉体の復活 – パート I

身体に目覚める

“身体は、魂の天文学を計算する精密機器である”


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ジャラールウッディーン ルミ

身体は大変精密に設計された精密機器や楽器であり、そこには私たちの「注意」やマインドを感覚することも含まれます。思考のマインド、それは私たちが学校で鍛えるものですが、私たちの生活の中では多くの場合信頼を得るものとなっています。実際のところ、私たちの多くは、身体の内側で感覚することはほとんどなく、思考と感情にすっかり埋没していることが多いでしょう。自分の思考や感情を本当に「感じる」ことをする代わりに、ただ思考と感情から行為をしています。

個人の成長について数冊の本をものし、経営者のためのトレーニングを教える友人ジョン シアーとともに中華料理の夕餉に出かけた時のことです。私たちは自分たちの生活や仕事のことを話し、クライエントたちが自分の身体にソマティクス的に気づいた状態になったのを観察した時の驚きについて幾つか触れました。「それはまるで、クライエントがプレゼンス(今の瞬間)になった時にマインドと身体の狭間でクライエントに双方向的な目覚めが起きているかのようになるんだよ…身体は変化して、マインドが変化して、その人もまた変化しているようなんだ」。ルター派の牧師でもあるジョンは、言いました。「もしかすると、これは‘肉体の復活’という言葉が真に意味するものなのかもしれない」。その瞬間、彼が言葉にしたことの示唆するものに私たち二人は深く感銘を受けました。おそらく、身体-マインドはプレゼンスに満たされ、私たちが探し求める真の変容を遂げるのかもしれない…。

今の瞬間に起こっていることに注意を向けたなら、私たちの身体は導き手、となります。神経科学は今や、私たちが考えを持ったり行為に及んだりするに、身体は既に差し迫った選択の信号を予期あるいは発する、つまり前(上位)感覚(pre-sencing)を持つことを明らかにしています。もしも身体内の諸感覚をモニタリングして身体の信号に注意を向ける方法を学んだなら(プレゼンシング、presencing)、叡智と創造性がそこにあり、私たちの精神的な絡み合いの下で露わにされるのを待っているのが分かるのです。

思考は、身体と分離するよう鍛えられてきています。「バロン フォン ミュンハウゼンの冒険(『ほら吹き男爵の冒険』)」では、ロビン ウィリアムズが月の王を演じています。月の王は、あまりに肉体の欲望と食欲に嫌悪を抱いたために、ついに頭を身体から切り離すことに成功します。彼はその成功にかなり幸せでした…くしゃみをする羽目になるまでは。私たちの教育のほとんどが、お互いを引き離すこと、そして自分の身体

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映画「バロン」(コロムビア配給)より

から自分を分離させる方向性に向いています。身体は、快楽と身体が施行する機能のみに価値を置かれています。不快なものは全て、ペーソス(哀感・苦難)または苦しみであると捉えられます。そうして私たちは不快感から離れて(自分を分離し)自分の思考のマインドの中で精神的に理由を探します。もしも精神面で不快感の理由を見つけることができたら、あるいは理解できたなら、その苛立ちから自由になれると自分に言い聞かせるのです。これは、私たちが何かに悩まされた時の通常の措置です。するとマインドは、現在の経験から抽象的になる(上昇してしまう)か乖離するかし、精神的に説明と治療を探します。身体から自由になりたい私たちも、月の王のようです。

その瞬間に注意を向けるための呼び声である身体の言葉を学より、私たちはその不快感の時系列や原因と結果、理由、または責めるべき対象の人や事柄など、全てを思い出し始めます。責めるというのも、身体での経験から自分を切り離し、さらにその効果として今の瞬間からも自分を取り除く企てとなります。よく眠れない、悪い食べ物、悪い人、(毎)月のこの時期であるといったことなど、感じる不快感を説明できるものを見つけると、とりあえずほっとします。分離という私たちの選択は、不当性の証明になるのです。同意してくれる人や味方になってくれる人見つけられると、私たちはさらに安心します。ボディワーカーやその他種類のケアをしてくれる職業の人々は、images-4.jpegクライエントとより多くの時間を過ごして原因を探したり、治療や治せるようなことをしてみたり、責めるべ
きことに関するクライエントの物語に同意したりということをよくしてくれます。これらは、苦しみの終わりのないサイクルをしばしば繰り返すことになるパターンです(仏教ではドゥッカdukkhaといいます)。そうして私たちは、身体が一時的なものであるという事実を(仏教ではアニッカaniccaといいます)見ないようにし、 永続的な安心感を探す方に加担するのです。

 

しかし、身体の信号への反応の仕方には別の方法があるのです。その信号を私たちが用いて、あるいはクライエントが用いて、プレゼンスであり続けるという方法です – 特に不快感がしつこい場合にも使える方法です。プレゼンスの状態では、経験している症状に参加し、そこに入るのです…たとえ「原因」がわかっているとしても、です。参加しようという進んだ気持ち、そして好奇心を持つ気持ちの掛け値のない効果は、私たちが「苦しみ」を終えるということになります。仏陀は、苦しみには三つの原因があると発見しました:忌避、渇望、そして執着です。私は、この理解のより中心にあるものは恐れとの継続的な関係だと信じています。恐れは、苦しみの創造における積極性ある主体です。私たちは、不快感は恐れを抱くべきものと自らを説得しています。不快感から自分を取り除こうとするとき、自分の苦しみに先んじているのです。なぜなら恐れ、つまり動機になるものはまだ自分と共にあるからです。不快感がまたやってくるのを怖がると、怖さという苦しみはまだ自分と共にあるということになるのです。

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推薦図書:

Damasio, Antonio. Descartes’ Error: Emotion Reason and the Human Brain
ダマシオ, アントニオ R 『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』 (ちくま学芸文庫)

Gendlin, Eugene. Focusing and A Process Model

Goenka, S.N. An Introduction to Vipassana Meditation

Carter, Robert. The Nothingness Beyond God: An Introduction to the Philosophy Nishida Kitaro

Nyanaponika, Thera. The Heart of Buddhist Meditation

Ramachandran, V.S. A Brief Tour of Human Consciousness

Tolle, Eckhart. Practicing the Power of Now

Yuasa, Yasuo. The Body: Toward an Eastern Mind-Body Theory
湯浅泰雄 『身体論』 講談社学術文庫

Presencing Issue #10 プレゼンスの贈り物

プレゼンス – 失われた本質:日本文化に深く根ざすもので、おそらくは誰しもの宗教的伝統のその昔には存在していたもの。地球上のあなたたちにとっての全き喜びのための、最も偉大な力というものがあります。この特質、この失われた存在のしかたというのは、自然、愛する人々、毎瞬間に起こる特別な出来事、そしてこの身体によって私たちを取り囲んでくれています。私たちは眠りに落ち、偽物の夢を見続けているのです – 世界が崩壊し、生命の継続性を確証してくれる本質を失った世界の夢です。私たちの種族は、悲しみ、憎しみ、そして恐れの夢を見ています。互いが分断していると感じ、他の種とも隔たっており、生命そのものからも分離していると感じています。この失われた本質というのはすぐにでも手にでき、いかなる瞬間にも保持できるというのに – それでは、今の瞬間はどうなのでしょう。 IMG_2925.jpg

プレゼンスはいかなる瞬間にも手にできる:私たちの生活を動かしている、クロノスの時間の領域から離れ、生命のすべての本質が今手にできるようになる、時間が存在しないカイロスの時間へと移行することができます。この失われた本質には、準備や大学の学位も、特殊訓練も、経営能力も要らないというのは驚きに値するように思えます。そしてただ選択するだけで、これまでに夢にも思わなかったような、想像だにしなかったようなこと、そして計り知れない成功をも超えたものを獲得することになるのです。そしてこの本質は、費用はかからず物理的な過程や個人的な長所も要求しません。ただ完全にこの瞬間に入ること、それで私たちはこの本質を経験できるのです。今気づいて下さい。私が語りかけているこの瞬間に。この瞬間を抱擁できることに気づいて下さい。それはまるで鳥居をくぐるのに似ています。片側は恐れと痛みの夢の世界。向こう側は幸せと愛を感じる世界です。古代の人々はこの経験を知っていたのです。全ての宗教の古代の教えは、分離という夢から目覚められることを教えてくれています。

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プレゼンシング:それは悪い夢から目覚めるという選択です。私たちは皆、目覚めの瞬間を経験してきています。これまでに経験した遊び心や一体感を思い出すことができます。私たちは皆、かつて感じた子供の遊び心に飢えています;昔感じた好奇心に飢えています;それらは全て、時計に突き動かされないかつて経験した時間であり、それらを切望しているのです。プレゼンシングは、個人の選択なのです!周りにあるものが、プレゼンスの経験を手助けしてくれる可能性もあります – 愛情溢れる赤ちゃんの眼差しが私たち自身の純真さを映し出してくれたり、子供達の笑い声がしたり、子猫が喉を鳴らしたり、犬が尻尾を振ってぺろぺろと舐めてきたり。これらは全て、感謝と生命の歓びの兆しです。では、今この瞬間はどうでしょう。プレゼンスは今にしか起こりません。プレゼンスを学ぶと、それは無数の鳥居をくぐり抜けるようなものです。なぜなら、私たちはいついかなる瞬間にもプレゼンスを選び取ることができるからです。思考や癖、怒りや悲しみといった自動的な反応にどれだけ頻繁にとらえられてしまうか、それは関係ないのです。

プレゼンスの贈り物

愛:プレゼンスを実践するとき、生活の中でそれまでとは違った種類の愛が生まれてくることに気づくようになります – バラードや吟遊詩人の歌う愛ではなく、どこででも、だれとでも経験しうる深い愛です。それは、私たちの本性にとって根本的な愛です – それは人生の贈り物とともにやってくるようにみえます。おそらくそれは、創造物の最も素晴らしい贈り物です。なぜならそれは、創造物の源だからです。それは生命力そのものであり、引力のように根源的で、どこにでも、何にでも存在しているものなのです。この愛の充満は、プレゼンスの深い継続です。プレゼンスの状態にあると、愛が運命へと引っ張ってくれるのを感じられます。プレゼンスになると、行くのを恐れるところであったとしても、感じられる恐れが安心感となります。必ずしも恐れを克服する必要はなく、支えと安心感を与える手を差し伸べてくれている愛へと、生まれたばかりの赤ちゃんのようにただ自ら進んで到達しようとすればいいのです。そうしてこの愛ともにプレゼンスにいれば、私たちは世界のための愛の表現、鏡となっていくのです。すると今度は、映し返してもらえるようになります – 初めて自分自身の真のアイデンティティを目の当たりにし、全ての生命のあたたかさと確信を感じるのです。

恵み:恵み、恩恵というのは、通常よいことや幸せな出来事の集合として表現されますが、それはあたかも全宇宙が私たちを祝福してくれているかのようです。儒教での恩恵についての賢人の言葉では、恩恵は続くものではないと分かっているが故に悲しいものだと語っています。恩恵は、魔法のように人生の中で時折現れてくれるもののようでもあります – 仕事が全て完璧にいく1日、結婚式や家族の集まりがすべて完璧になる日のように。中には、恩恵というのはよい生活のしかた、善き人間であること、よい仕事をすることへの報酬であると考える人もいます。しかし恩恵は、私たちが今の瞬間、プレゼンスにいるときにはいつでも手にできるものなのです。愛と同じように、恵みは私たちの人生の表面よりもずっと深いところにあるものなのです。恩恵を感じるとき、時間が存在していないと感じます:時間の中で生きられる生と、永遠の生 – 無時間があるのだ、と。私たちが身体の中で生きている間、私たちはその両方の生命を生きる機会を手にしているのです。恵みがプレゼンスを通して手にできると認識すると、自分にも、そして周りの他の人々にも完璧な日々を与えられます。あなたのお友達、家族、あるいはクライエントが、あなたが恵みと愛の泉であり、そしてそれらを受け取る人だとみなしたならどうでしょう。

感謝:感謝は、プレゼンスの贈り物です – それはほかのものを光と歓びの中で抱擁する、豊かな感覚です。それは、受け手と同じく、与え手にも送られる贈り物です。感謝の念を抱くとき、私たちは恩恵に満たされます。私たちはより大きく、もっと柔らかく、そしてさらにオープンになって愛情に溢れ、遊び心を持つようになります。プレゼンスによって、感謝が生み出されます(英語での恩恵:グレイトフルネスは、グレイトとフルネスに分けると大きな満足(満腹)・豊かさという意味も見てとれます) – その満足さとは、どのような食事より満腹にさせてくれるものです。プレゼンシングにあると、私たちは感謝を受け容れ、他の人々にそれを渡すことを選びます。それは私たちを歓びでいっぱいにしてくれるので、異なる感覚になります。感謝は、義務感や借りを作るような感覚は全くなく、他の人々によって善行がなされたことへの単なる反応でもありません。プレゼンスの感謝は、自由の瞬間や愛の瞬間、そして私たちのまさに生命が貴重な贈り物であると認識したその瞬間瞬間に訪れるものです。プレゼンスの感謝は、まるで布袋の物語のようです。彼は欲しいものを無心しますが、相手はそれを断れません。なぜなら、彼はとても幸せであり、彼自身が他の人のための幸せの源でもあったからです。布袋は大きな身体で麻袋を携え、その中には尋ねた村の人々、あるいはある家族からの贈り物を入れていました。そして、彼はそれらが必要な人々に全てあげていました。彼はいかなるときも感謝の気持ちでいたので、いつも幸せでした。職業的なセラピストも布袋のようになれる可能性があります。その人たちもこの世界から数多くの贈り物を受け取るからです。もしかしたら、私たちがビジネスの公式を変えられるかもしれません:「プレゼンシングを通して、真に感謝できることで本当に欲するものを得られるのだ。得たものを他に伝えられるに十分なだけ私は感謝している – 与えることは私の感謝の表現なのだ。そうして私は幾度も報酬を与えてもらっている」

真のアイデンティティ:自分が何者であるのかは、どうして知るのでしょう。自分の歴史、名前、性別、友人や家族、環境は自分で分かっています。しかし、本当に自分が何者であるかを言葉にできるでしょうか。自分は他の人たちにとってとても重要かもしれませんが、その重要性は環境の産物によるものかもしれないと心の内で認識しています。私たちは皆、何かが私たちの内側で手招きをしているように感じています。そしてそれが「人生にはこれ以上のものがある」と伝えてくれている、とも。生命そのものの腕いっぱいに抱かれでいる、内なる切望の思い – 私たちはひとつになりたいという願い… 自分たちの持つ技術と能力を別のレヴェルに持っていきたいという強い願い…. 切望と不完全燃焼の感覚と… その感覚はいつも私たちに付きまといます – 本当によい時間を過ごした後でさえもです。プレゼンスを実践する時、私たちは真のアイデンティティの叡智のわずかなきざしと瞬きを得るのです。プレゼンスにあると、私たちは人生の青銅の鏡を覗き見ることになります。私たち自身の真の存在が映し出された姿を見始めるのです。真のアイデンティティを移し返してくれる人々が存在してくれています。プレゼンスでは、私たちは何も隠すこともなければ、隠されていることもないのだと認識するのです。布袋のお腹のように、何も隠すものなどないほうが私たちはずっと幸せなのだと気づきます – そのようにして、私たちは他の人たちが真のアイデンティティを見出すためのプレゼンスの鏡となるのです。隠すことも恥と思うことなど何もないのです…布袋の顔を見てみましょう。彼はあなたの真の姿をそのままに今映し出しているのです。彼は、あなたになんの判断も抱いていません;彼は、あなたがただ生命を手にしていること、それだけにしか関心を抱いていません。彼が真の青銅の鏡なのです。あなたは、他の人たちのための布袋になれるでしょうか。あなたはプレゼンスを信頼していられるでしょうか – あなたの雇い主や仲間、生徒やクライエントの真のアイデンティティのために。鏡となり、耳を傾け、彼らが本来の自分自身に感謝を持てるようになる贈り物を渡してあげられるでしょうか。

歓び:『ザ パワー オブ ナウ(今という力)』の著者エクハルト トーレは、「歓びの身体」を「痛みの身体」との対比として語っています。今起こっていることを、「イエス」と言ってただ受け入れることを選択すると、私たちは異なる次元に入って身体で異なる感覚を感じると述べています – そうしてまた私たちの身体が変化をするのだ、と。それはあたかも、私たちが継続的に「ノー」と言い続けているが故に痛みを持って生きているということのようにも思えます。それについて考えてみましょう – 人生に対して「イエス」と言ってみてはどうでしょうか。私たちは数多くの悪いことを経験し、時には幸せな気持ちになり、またある時には怒りを覚えたり、悲しくなったりします。すると、継続的に痛みがそこにあり、ものごとがあってほしいようにはなっていないことを表面下で思い出させるものとなるのです。プレゼンスの実践方法は、以下です:あるがままのことに「イエス」と言うのです。そうすることで、私たちは歓びへと入っていくのです。もしも、私たちだけが恐れと痛みに自分を縛り付けてしがみついているのだとしたらどうでしょう。プレゼンシングというその縛り付けからいつでも自由にしてくれる鍵を手にしているとしたら?その鍵を用いると、プレゼンスを通して私たちが創造している世界を愛するようになるため、生命に胸を開いて感謝できるようになるのです。

明晰さ:プレゼンスのもう一つの贈り物は明晰さです。知識を集めて明晰な理解をしようとしたことはどれだけあるでしょうか。科学の探求は、真理の探求を礎としています。しかし、より時間をかけて探し、知れば知るほど、知識をもとにした事実は私たちに理解を与えてはくれないことが分かるのです。理解(understand)というのは「下に ある・立つ(stand under)」(という英語の意味)から来ていますが、そこには身体で感じられる感覚があります。たとえば、禅の弓道を行うものは、思考が空っぽになることでいつ矢を放つのか、その感覚を得るのです。放つのは明晰性の感覚であり、プレゼンシングの経路上の身体的な感覚であって、それは的に至る矢の通り道を照らし、私たちのマインドを明るくするものなのです。この身体的に感覚される経験は知識によって生み出されうるものではありません。弓道家の経験のどの側面もばらばらに研究することはできても、明るみのその瞬間は理解できません。それはプレゼンスされた一瞬間であって、それが明るさと明晰性 – 全てがつながる瞬間をもたらすのです。決断というのもまた、明るさと明晰さの瞬間となりうるものでしょう。

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意味:
また別のプレゼンスの贈り物は、意味という感覚を見つけるということです。プレゼンスになる時、その瞬間が剣の鋭い鋒となり、過去や未来に浸っている私たち自身を、今という瞬間でそこか
ら切り離してくれます。今という剣は、全ての時代、全ての生命、全ての運命、全ての創造されるものと私たちを繋げるものです。そのようにして、この瞬間においてまたこの瞬間にのみ、私たちは個人的な歴史や文化的な環境よりむしろ、永遠に根ざしているものだという意味を見出します。この意味は、いつであっても私たちに訪れる可能性があります。その意味は特別な瞬間においてのみ感じられるという感覚を与えてくれるので、私たちはそれを認識するのです。その意味の源を全て理解するわけではなくても、私たちはそれを識別できるのです。全ての生命とのつながりへと意識を変化させることになります。そのつながりを感じる時、つながりと流れで日々を生きるようになり始めます。すべてが首尾一貫します。つまり、すべてに意味があります。プレゼンスの青銅の鏡を見つめることで日々を始め、継続的に意味を証しし、共に発見してゆくようになるのです。人生の明晰性、意味は感覚であり、知識の寄せ集めを通してただ起こってくるようなものではないのです。  IMG_1937.jpg

目的:プレゼンスをもって意味の感覚と揃う時、プレゼンスの贈り物すべてが与えられます。人生の中の物事が、努力することなくはまっていくようです。私たちの生命のが、つぎつぎと明らかになってきます。物質的な世界は目的という感覚を与えるものではないと認識するまでには、時間と経験がかかります。私たちは、到達と失敗の生活、電車に駆け込んだり美味しい食事に満足したり、眠りやセックスに満足を求めたり、周りの人の世話をすることもあれば周りの人と競争して打ち負かすこともあります。いかに物質的な生活が全てを与えてくれたとしても、物質的な報酬の表面下には苦しみと喪失感が隠れていると認識したため、仏陀は物質世界を離れました。彼は、苦しみと喪失を超えたところへと導いてくれる道を探しました。彼が発見したのは、苦しみを越えるためには苦しみへと入っていく必要があるということでした。座って自らの苦しみを経験し続ける中、彼には分かったのです:人生での良いものと言われるものは全てが苦しみを生み出す。なぜなら、私たちはそれらに執着をするからである。人生での全ての悪い出来事と言われるものは苦しみを生み出す。なぜなら、私たちはそれらを避けようとするからだ。シンプルなプレゼンシグを通して、つまりあるがままのものに「イエス」と言うことによって、目的というのは存在に編み込まれているものなのだと彼は認識しました。つまりは、それが生命の贈り物の真髄なのです。 

-創造性:プレゼンスの最も偉大な贈り物は、おそらくプロフェッショナルな人々・職業的な人たちにとって馴染みあるものでしょう。まさにそれが理由となって、私はこのことをお教えしているのです。真髄において、私たちに求められてきた職業的プラクティショナとしての個人的な創造性、卓越(した技術)、夢の認識というのは、プレゼンスを自分の導きとする際には私たちが演じることができる役割のための小さな道の一本一本であるというになるのでしょう。どれだけ成功していても、どれだけ失敗したり間違いを犯したりしても、私たちはプレゼンスの状態になれるのです。プレゼンスになってプレゼンスの兆しと贈り物すべてを経験し始めると、私たちは宇宙そのものとひとつに揃っていると認識し始めます。私たちの知識、個人的な能力、創造性は、力と物質的な報酬から成る個人的な王国よりもむしろ、生命の流れと共に働く方が何倍にもなるのです。私たちは、私たちの創造性をもってすでに素晴らしいことをしています。私たちの生活のあらゆる側面にプレゼンスをもたらしたなら、生命の、ふたつの隠された偉大なる秘密を発見することになるでしょう。生命そのものは永遠であること、そして私たちは集合的に経験している世界を創造してきている、ということです。私たちがこの世界を作り上げてきているのです。そして、創造的な技術と専心を生命と永遠に捧げることにより、プレゼンスの贈り物に満たされた世界を発見できるのです。

この最初のクラス(2010年)は、「パーソナル(自分で行う)プレゼンシング」と名付けられています。なぜなら、創造的なひとりの人間として私たちがプレゼンスを実践するまでは、世界は私たちの恐れ、偏狭さ、獲得癖などを反映し続けることになるからです。私たちは皆この生命という真の贈り物に目覚めていないので、まだ子供なのです。生命へのプレゼンシングではないような、様々な似たり寄ったりのアプローチであったとしても何某かの私たちが求める自由や喜び、愛と安全性を与えてはくれるので、自分を欺くことになっています。リーダーを備えて始まるような職業的な共同体は、創造性と知識を用いて死に絶えようとする世界を利用するやり方から、生命あるプレゼンスという意識をもち、全てを照らし出すような方法で世界を共に創り出す方へと向かうこともできるのです。生命共-創造的になることで、これまでに決して理解し得なかったことが理解できるようになります。つまり、私たちの目覚めを待っていてくれる全ての生命体という源泉を理解するのです。そうすれば、私たちはこの世界と共に、私たちの技術と創造性を全て共有する用いかたができるようになります。日本の伝統である七福神は、私たち自身の創造性をあらわし得る存在でしょう。神々は私たちの外にいるのではなく、私たちひとりひとりの内にあるのです。

恐れを抱擁して呼ばれるところへと行く

内なる導き:1971年、私と家族はパロ アルトを離れ、数ヶ月間の旅を経てオーカス島に落ち着きまHigh_Sierra
した。私が心の内側で聞いた、多くのメッセージの結果として引っ越しをしたのです。そのメッセージは、私がカリフォルニアのハイ シアーに一人でバックパックを背負って10日間の旅をした時に始まりました。旅に先立って断食をし、私自身の内なる導きに自覚的になるまで断食を続けようと心に決めたのです。その旅のある部分は心地よくはなく、ある時は危険で、他は活気に満ちたものでした。日々私は、私を導いてくれる内なる声にどんどん自覚的になっていきました。どちらの道に行くのか…それまでに全く経験したことのない自然の中で、私は物事を聞き、見ることができました…まるで、川のせせらぎの水の音楽の中にパンの笛の音を聴くように。4日分の乾燥食料を一度きり食べたのち、私はヴァージニア湖のすぐ近くに野生の葱が密生しているところに出くわしました。そこには私一人しかいません。午後遅い時間でした。私は、その葱をシチューにしようと決めました…葱を食べた後、とてつもないエネルギーが私の身体にみなぎりました。私は元気いっぱいになって、寝袋を広げた後、周りの地域を探求しようと決めました。そこは西向きの傾斜面だったので、太陽が沈むまでかなり時間がありました。ここにはとても深い意味があるように思え、畏怖の念と謎が私の周り全てにあると感じられました。私は、かつて若い時分に瞑想をし、導きへの感謝を叫んだ儀式の場所を見つけました。その夜私は何時間も目覚めたままで、寝袋の中から川のせせらぎを聞いていました…私は自分が一人きりではないと感じられました…なにかが私の中にいてくれて、自分の選択を助けてくれているのだ、と。今私には分かります。そのなにかとは、プレゼンスだったのです。
エンリケとの散歩:それからというもの、そのなにかは私の中でずっと意識され続けました。パロ アルトに戻る道中、心の中でベイ エリアを離れるのは今だと聞こえました。家を売却してオーカス島に行き、そこでは三ヶ月間試験期間として過ごしました。それから西海岸を南へと戻りながら住居を構える可能性を探りつつ、友人たちを訪ねました。サンディエゴまで来た時、私はラグナ ビーチ近くに住む友人のエンリケを尋ねようと決めました。彼と私はラグナ ビーチで落ち合い、海岸を行ったり来たり繰り返しながら話し続け、まったく8時間も過ごしました。エンリケが自分の内なる声に従うのが上手なのを知っていましたし、私はハイ シアーでのことがあったため、彼に訊きました。ただのエゴの好みではなく、自分の内なる導きが語りかけてくれているというのはどうしたら分かるのか、と。プレゼンシング ニューズレターの第4号にあった、私のヴァージョンの聖フランシスの話を覚えておられる読者の方々もおいででしょう。彼も同じ問題で困惑し、それで何日間か洞窟で隠遁したわけです。いずれにせよ、エンリケはずっと私について回っていたことに答えてくれました。「自分の内側でやろうと聞こえたことは、全てするんだ…だって、エゴはいつでも恐れに突き動かされているものだから、僕がいつもその公約に敬意を払っているとエゴはだんだん静かになってくるんだ。」神がフランシスに言ったことを思い出して下さい。「あなたは私の声だとわかるだろう。なぜなら、私はあなたがするのを恐れることをするように言うからだ。」

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行くのを恐れるところへ行け:そうした経験を総合すると、野生葱の茂みを発見して食べたことでもとても助けるなることがやってきたのだと分かります。「行くのを恐れるところへ行きなさい。」私が発見してきたのは、自分でそうした言葉に従っていくと、恐れのエネルギーが畏怖と謎、歓喜へと変革されるのだということです。人生と内なる導きは、いつであっても道を示してくれる、そう私は信じています。私たちは召命されてきており、恐れがあるにもかかわらずその呼び声に従うことを選んだなら、私たちの人生はより良き方へと変化するのです。また、その道に忠実でいるのが最もよいと分かったのは、私が内側で感じる恐れをプレゼンスすることになるからです。恐れは混乱になり得ます – 恐れへと入っていかないためのありとあらゆる理由があります。自分がやるよう呼ばれているように感じることをしないための正当化を支えるものは山とあります。また私たちは、間違いを犯すことにも心を開いておかねばなりません。私たちは、よく道を見失います。そうした時であってもプレゼンスの状態になり、道へと戻してくれる内なる導きに耳を傾けるのです。最後にもう一度申し上げますが、行くのを恐れるところへと向かうことに同意する時…私たちの人生全てが変化します。より多くの愛、エネルギー、友情、そして洞察が私たちに注ぎ込まれてくるのです。

洞窟の中の聖フランシス ニューズレター#8

恐れのプレゼンシング– 導入

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9月の日本滞在を前に、私はニューズレターの次の題材を考えていました。私は今、オーカス島で隠遁中です。昨日は、美しい庭に座って陽光を浴びている時に、ある聖フランシスについての話がふと浮かんできました。私はこの話の元についての記憶を辿ってみたもののはっきりせず、確かカザンザキスの著作でその話を読んだのではと思いました。恐らく、皆さんもその話を聞いたことがあるのではないでしょうか。アッシジのフランシスについてはあまりもたくさんの逸話があります。私は自分の言葉でその話をもう一度書いていました。すると近くの木の茂みから小鳥*が飛んで来て私の足に止まり、私を見上げました。これは、私が考えている物語が真正のものだと知らせてくれるに十分なものでした。というわけで、元々の話を書いた人への弁解は全てこれでよいことにして、その物語を皆さんに披露することにしましょう。

*註:アッシジの聖フランシスは、小鳥たちに説教をしたという言い伝えがあり、その姿を題材にした絵画も多くあるほど西洋のキリスト教世界では有名である。ここでは、その縁深い小鳥という象徴的存在がこの物語が容認してくれるサインと捉えている。

洞窟の中のフランシス – 知ることへの疑問

アッシジのフランシスと同胞ベルナルドは一緒に旅をしていました。小さな村で神の言葉を伝えた後、フランシスは一人きりになれるような洞窟が近くにないかを尋ねました。洞窟を見つけると、フランシスは水袋を満たし、ベルナルドに近くに野営をしてそこで自分を待っていて欲しいと頼みました。ベルナルドは、フランシスがここ数日何かで頭がいっぱいになっていることに気づいていました。フランシスがある気分になっている時には、友人の要求に抗わない方がよいことを彼はわかっていました。フランシスが洞窟から姿を現すのを待っている間、彼は貧困生活と聖なる狂気について考え、それらをフランシスと話し合おうと決めました。時に、洞窟から呻き声や息苦しい叫び声が聞こえてくると、彼は友人のことが心配になりました。さらに不安にさせたのは、そうした声の後に何時間もの静けさが続いたことでした。これは二日間、日中夜続きました。ベルナルドは自分の祈りを続け、友人のためにより多くの祈りを捧げることをしていました。

ついに三日目の朝、フランシスが姿を現しました。疲れて血の気がなく、ベルナルドに気づいてさえいないように見えました。彼は身体を清め、数少ない持ち物を集め、そして歩き始めました。ベルナルドは程なく追いつき、後ろについて歩きました。友人が険しい足取りで歩き、時折水を飲むために立ち止まるのを見つめながら。日の中頃になり、彼らは石に腰掛けて休みました。ちょっとした恐怖におののきつつ、ついにベルナルドは沈黙を破ります。「兄弟フランシスよ、洞窟の中で何が起こったのですか」フランシスは、とても遠くを見るような目つきで彼を見ました。「そのことは話したくないんだ。」

同じ日のその後、それから翌日もほとんど、彼らは沈黙の中旅を続けます。ベルナルドはそれでも着いて行きました。友人の歩みがゆっくりになり、躓きがちになるのをみとめながら。彼は、止まって休むべきだと強く主張すべきか考え倦ねましたが、心配な思いをぐっと胸に留めて黙っていました。黄昏時になり、彼は火を起こし乾いたパンを水に浸しました。ひどくほっとしたことに、彼が差し出したパンをフランシスは口にしました。夜の祈りの前に、ベルナルドは訊ねました。「起こったことを話す気になったかな。」フランスシスはより遠い目をして言いました。「いや。」

それから三日目の朝、ベルナルドは陽が登る前に目が覚めました。祈りの言葉を口にしてから薪にする木を集めました。フランシスの姿は見当たりません。今日は、ベルナルドは鍋に水を沸かし、みずみずしい青葉を少し入れ、乾燥させた穀物、そして少しの塩を入れました。その粥をかき混ぜていると、フランスシスがどこからともなく現れ、彼の隣に静かに腰掛けました – 自分の木の器と匙を手にして。そして、粥が出来上がるのを待っていました。二人は粥を食べ終えて、ベルナルドが話し始めました。フランシスは友人の唇に手を当てました。フランシスの瞳は涙でいっぱいでしたが、友人を深く見つめていました – ちいさな微笑みが彼の顔を開きます。「では話そう。」ベルナドはほっと人心地つきました。フランシスは身体の向きを変え、火のほうを向き、手を温めました。

「何週間か、私は心配と疑念とに悩まされていた。私たちがしている活動はどんどん広まっている。そして今は、私は初めの頃には決して存在していなかった数多くの悪魔に直面しなくてはならなくなっている。いまや名も知らぬ村から村へと密かに旅をし、そのうちの四分の一は、時にあまりに居心地が良すぎるところに寝泊まりし、良いものを食べ、私が好むよりもずっと裕福な人々と出会う。そして今、村全体に説教をして欲しいと頼まれ、多くの人々が私を指導者だと見なすようになっている。私は単純な人間なのだ – 神の道化だ。私は一回に数名の人々に話をし、鳥に講話をする方が好ましいのだ。私は心の中で問い始めた。自分が誘惑を感じ、そこに魅力を感じるときにどうしたら神の召命に忠実でいることができるのだろう、と。そして神よ、こうした変化や要望が、果たしてあなたからきているものだとどうしたら私はわかるのでしょうか、と。

Lightening洞窟の中で、私はこうした質問を何度も何度も問いかけた。たくさんの答えを耳にした – だがどれも真正のものには感じられなかった。私は、何か兆しを与えてくれるよう、何度も何度も神に懇願した。私の道が正しいと示してくれるような兆しを求めて。「私は、あなたが求めることはなんであってもしましょう。ですが、それを求めているのがあなたであることを私は知る必要があるのです」と。私は疑念で七転八倒し、身体はあたかも熱にうかされたようにばたばた蠢き、ぶるぶると震えた。私はたくさんの顔を見た。責められ怒りに満ちた顔を。私はたくさんの音を聞いた。外から聞こえるもの、そして私の口から発せられたもの。水は私をなぐさめてはくれず、私は眠れなかった。洞窟の闇と静寂はどんどん耐え難くなっていった。私の祈りは叫びと懇願になり、時には神に対する抗議になっていた。とうとう神が私に答えてくれた。「お前には私の声だということがわかるだろう。なぜなら、私はお前がするのを恐れていることを求めるからだ。」ついに私は、神が話しているのを耳にしていると分かったが、耳にしていることは私は嫌だった。それから私は、新たな気づきと戦っていた – 自分が耳にすると期待していたことではなかったのだ。そうしたすべての変化を抱擁するよりも、私は人生を単純に生きる方を好むのだ。昨夜私はほとんど眠れず、この新たな方向性を予見し、夢を見ていた。ついには静けさがやってきた。恐れの波が凪いで行くのを感じた。私は初めて、私の恐れによって自分の方向性を知るのは確かなものであり、また神が私と共にいることを確証してくれるものなのだと気付いたのだ。もう私はこの新しい信者たちの中に入り、挑戦にまみえ、私の周りにできつつある動きに加わる用意ができた。私は間違いを犯すだろうし、転びもするだろう。私は疑念と恐れに苦しみもするだろう – しかし私は決して一人ではない。今私は、神の愛がいっぱいにひろがるのがわかるのだ。」

解説 – 行くのを恐れるところへ行く

 フランシスのように、私たちの人生においては、何かに呼ばれているように感じていながらも、最も
High_Sierra深い恐れにぶち当たるような場面が多々あらわれてきます。奇妙なことに、そうした深く根ざした恐れは、生命を脅かすような方向性に向かって行くというよりも、かえって抱擁と成功と幸福と関わっているものなのです。人生の新しい帰路にたち、努力をして励んだことが与えられるようなことになると、フランシスと同じように、私たちは最も自分自身の想像してきたものに信頼を置けなくなったりするのです。ボディワーカーや人へのケアを生業としている人々は、クライエントの身体にそうした躊躇や疑念を感じとることがあります – そして、私たち自身の身体にも、です。神経質なエネルギーでいっぱいになっているような特定の緊張が、身体で感じられるのです。私たちの手によってこうした緊張のエネルギーが解放されると、身体がリラックスへと向かって行くのが感じとれます。クライエントが、いかにそうした疑念や恐れが身体に具現化しているのかに気づくようになると、それらの変化は理解へと向かう「通過儀礼」のようになります。私たちは、その変化を身体で感じる際のクライエントの動揺を組み立て直す手助けをすることができるのです。私たちのプレゼンシング タッチのやりかたによっては、数あるコンサルテーションや支えになる友人たち、家族たちよりも、ずっと安心を与えうるものともなるのです。

私たちは誰しも、疑念と恐れを持つときがあります。また多くの人々が、そうした恐ろしい時期が定期的に起こるものとなっています。清貧の誓いを旨としたため、フランシスは住宅ローンや保険、成功への競争、また経済的な損失やそれらの失敗などに関わるような恐れに苦しむことはありませんでした。ここでの皮肉的なことは、フランシスでさえも人生の恐れに満ちたところから逃げ出し得なかったということです。神の答えを耳にしたとたん、彼は恐れを経験し続けるのだと認識しました。しかしながら、神の召命に沿って行くのを学ぶことで、また行くのを恐れるところへ行くことで、彼は自分の恐れを協力者へ – 継続的な方向性と挑戦の源泉へと、どんどん変革させていくようになるのです。そしてそれが神の啓示でもあるのです。

私たち自身の恐れをプレゼンシングする

 自分が恐れるところへ行けるよう、人生の枠組みを変えたなら何が起こるのでしょう。私たちの身体でのプレゼンシングの贈り物の一つは、恐れで固まっていたエネルギーが精神的な明晰さや肉体的な機敏さ、そして感情的な気高さとして手にできるようになった時、ある変化が身体で感じられるということです。この変化が起こる時、私たちは恐れることは何もないのだと気づきます。恐れをプレゼンシングすることで、錬金術的な変容を生み出せるのです – 痛みや制限の入り口をくぐり抜け、創造性と安らぎの空間へと入っていくのです。

このプレゼンシングのニューズレターでは、これから数回にわたって恐れについて、また恐れが私たち自身と個人の関係性、またクライエントとの仕事などにどのような影響を与えるのかを見ていきます。恐れや疑念に圧倒されそうな時にプレゼンシングを実践したなら、これまでよりもずっと喜びが溢れ、平穏な感覚を自分のものとして感じられるようになる、私はそう信じています。

・恐れを抱擁し、召命されるところへ向かう

・どのように身体に恐れがあらわれるのか – ボディワーカーが感じられること

・私たちの文化における恐れの増大 – ケアに携わる人々ができること

・個人の恐れとプロフェッショナルとしての倫理 – どのようにして恐れの中にいるクライエントの役に立つか

・錬金術的な過程としての恐れとプレゼンス – 恐れをプレゼンシングすることへの報酬

・恐れの身体をプレゼンシングして痛みの身体(エクハルト トーレ)とのワークをする

・言い訳をしない – 外界のなにものも愛することとプレゼンシングを邪魔することはできない

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プレゼンシングの発見 ニューズレター#7

プレゼンシング ニューズレター 7 – プレゼンシングの発見

“ハーモニック コンヴァージェンス – ワシントン州オーカス島 1987年8月16日”
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それは、毎朝5時のヴィパッサナ瞑想から始まりました。自分の身体の中のスキャニングをしている時、外の光は窓から部屋へと入り込み、私の背中が照らされていました。スキャニングは機械的に、それぞれの身体の部位を内側から感じていました – 一箇所から次のところへと、感覚意識を移していきます。5分ほどしたところでしょうか、私は「今」という言葉を聞き、感じました。その言葉は私の身体の全ての部位をあっという間に通っていくようでした。その「今」という声はとても聞き慣れたもので、まるで私の友人ジェシー ルーが、私の内側でbuddhahands話しているかのようでした。彼女は病院にいます。彼女とは12時間前に話をしました。

私はスキャニングを続けましたが、瞼の裏側に視覚的な光が大きくなっていることにだんだん気づきました。また、「今」が聞こえます。ふたたび、身体を通した躍動がやってきます。これは何だったのだろう?それはまるで友人が私の注意を惹き、何らかのメッセージを伝えようとしているようです。その「今」の繰り返しが続き、徐々に私はその「今」がメッセージだったのだと分かりました。一回ごとに私の身体とマインドに深遠な影響が起こりました。実践の道具が与えられたのだ、そう私は認識しました。私は静かに、心の中で「今」と呟き始めました。自分の身体を通した躍動が感じられるだけではなく、瞼の裏に受けていた光までもが躍動するではありませんか。続けていくと、身体はどんどん軽くなっていきます。そしてさらに、さらにリラックスしていきます。この出来事が起こる中、私は朝日で部屋中が満たされるのが感じられました – 光がありながら、光がないのです!ついに瞑想を終える時間になりました。私は、とても(何度も起こった)「今」に感謝の思いを抱いていました。目を開いて、とても驚きました。既に太陽が上がっていただけではなく、時計は8時を指しています。3時間も瞑想をしていたのです!

scrollまだ自分の中で「今」を感じているうちに、私は『ア コース イン ミラクルズ(奇跡講座)』(ACIM)を手にし、コースの言葉を少し読みました。すると突如として、あたかもその言葉に火がついたかのようです!私は、それらの言葉をこれまでとは全く異なって理解できるのです。どの言葉も、どの文も「今」読まれるように書かれているのです。私の身体と読書での実践がひとつになったのです!これは圧倒される経験でした。数カ月にわたり、私はACIMのある一節を理解しようとしていたのですが、ほとんど何か暗号化されて書かれているかのように感じていました。暗号解読コードを受け取り、謎が解けたのです。「今」が理解の鍵だったのです。

私は発見に大喜びし、ACIMを学んでいる友人たちと分かち合いたいと思いました。私は、友人キャサリンの家へと車を走らせました。私は起こったことを説明する時間をとりました。すると、「今」はまたACIMが「聖なる瞬間」と呼ぶもの、つまり私が「プレゼンス」と呼ぶものを理解する道なのだと認識しました。私は、彼女に一緒に「今」を実践しないかと提案しました。暫くの間二人でやってみました – 私は全く平穏で、とても今にいる感覚でした。ついに彼女は言いました。「これはとても濃密だわ。」彼女が経験に圧倒されて恐れている感じが分かりました。お茶を飲みながらこのことについて話をし、私は次の場所に向かうのが良いように感じました。私は起こったことを不思議に思いました – なぜキャサリンにはあの経験が難しかったのだろうか、と。

次に、友人のデヴィッドとシェリーに会いに、山の方へと向かいました。時間は朝Ruth and Hubert9時です。二人はキッチンのテーブルについていました。お互いに抱き合って挨拶をしました。二人はとても真摯なスピリチュアル探求者で、世界じゅうを旅して回っている人たちでもあります。デイヴと私はハイキング友達です。既に退職しているとはいえ、二人はとてもエネルギッシュで高い好奇心を抱いています。スピリチュアルな事柄について、私たちはこれまでたくさん話し合ってきました。私たちは教会には行きません。三人ともここのところ暫く、「聖なる瞬間」の意味について熟考していたのでした。私の経験を話してから、デイヴと私は一緒に「今」を実践してみました。互いに見つめ合いながら、私は言いました。「僕と一緒に、「今」と言ってその瞬間を身体で感じてみて。」突然デイヴと私は、初めてお互いに認識できたのです!ともに多くの人生でつながっているのを感じていました。「おかえり、きょうだいよ」と私たちの瞳と心がそう言っているようです。互いの瞳を映し合っているのが、身体で不思議な馴染み深さになってきました。私たちを見つめていたシェリーが、「あなたたち二人にとってとても深遠なものなのね」と言いました。このプレゼンスの共有から話をしている間、不思議な馴染み深さのある感覚がずっと私たちを包み込んでいました。私はデイヴとシェリーとのその感じを、「今」は現実のもので、共有できるのだという叡智として感得しました。

MountainViewそれから私は、ハーモニック コンヴァージェンスのお祝いとしてコンスティテューション山に登る企画を立ててくれた友人、リンに会いました。ハーモニック コンヴァージェンスと呼ばれるものが高次の意識を開いてくれるかもしれない、それは教会に属すことのないスピリチュアルな人々の中では大きな期待となっていました。彼女は健全な懐疑心、内なる歓びに溢れた魂、そして強い好奇心を持つひとです。私たちは共に、夏じゅうかけての長期間のヴィパッサナ瞑想を実践した仲です。私は二人分の昼食を持って行きました。サンドウィッチとオレンジ、クッキーを用意しました。山に登っている間に、私はリンに経験したことを話しました。ハイキングはなかなかのものでしたが心地よく、太陽の光と影が斑に下りてきています。私たちはツイン レイク(二つの湖)まで来ました。昼食をとっている時、セルリアン ブルーの蜻蛉が急がず、水面をかすめて行きました。その後フォールス サミット(訳注:「偽の頂上」の意)まで登ると、オーカス島の東半分のほとんどを見下ろせる断崖になりました。私たちはその崖のてっぺんに腰掛け、隣り合って瞑想の輪を作り、瞑想をしました。

その後、グランジ ホールでの屋外の集まりに参加しました。一日中、ジェシー ルーのことが私の頭から離れませんでした。瞑想に彼女が現れたことなど、仲間たちには一言も言いませんでした…しかしどうしてか、私には分かっていました。今日という日を彼女と分かち合っているのだ、と。病院に電話をかけて、今日について話すこともできたはずです。地元で作られた「ワンス イン ア ブルームーン(訳注:滅多にないことの意)」という劇を観るのに、私は最前列に一つだけ席が空いているのを見つけました。
IntotheLight私の隣には、二人ともに90代のルースとバーバート キダー夫妻がいました – 彼らは第二次世界大戦時からのクェーカー教徒です。ルースが私の方に身体を傾けて言いました。「ジェシーのこと、聞いた?」その刹那、私にはルースの次の言葉が分かりました。ジェシーは、ハーモニック コンヴァージェンスの前夜に亡くなったのです。私は知らなかったと答えましたが、一日中ジェシーの存在を感じていました。私は、透析治療の世話をするために、一週間に三日彼女と時を過ごしていたのです。ジェシーもまたスピリチュアルな好奇心を持っている人でした。ジェシーの死から数日後、彼女の夫のジムが、ハーモニック コンヴァージェンスの前夜、彼女が日記のはじめに書いたものを見せてくれました。「光へと入る…」

私は、受け取った贈り物にとても深い感謝を覚えました。それは今もジェシー ルーに帰するものだと私は思っています。彼女は私を探求の仲間だと分かってくれていました。彼女は、力強い贈り物を私に伝えてくれたのです。それと同時に、まさに「今」は『コース イン ミラクルズ』をより理解するのを助けてくれたように思えます。当時はあまり分かっていませんでしたが、私が受け取った贈り物は人生を全く一変させうるものだったのです。つまり、私の内なる教えと外界での行為の源泉となるものがあらわれたのです。私の内面の生活、インナーライフをお話しすることにより、皆さんがそれぞれ私たちのプレゼンシングの経験を自分のものとして確認し、生きて行かれるのを願っています。私に伝えられたプレゼンシングの贈り物を、お渡ししたいと思います。この贈り物のひとつは、「恐れるものは何もない」ということです。どうぞ伝えていって下さい。

祝福を込めて、
ジャック

プレゼンスの兆し ニューズレター#6

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以下は日本でお教えしているプラクティカル プレゼンシング(実践的なプレゼンシング)からの抜粋です。プレゼンシングを実践している人は、究極的なスポーツをしているのと比較することができるかもしれません。プレゼンシングを実践すればするほど、人生における内面と外界の変化が起こってきます。この一つ目の記事では、そうした変化の幾つかを説明しています。1日を通してプレゼンスを覚えていることは大変な挑戦です。プレゼンスの兆しは、私たちが通常見落としているような背景の諸現象を証拠としてもたらしてくれるのです。それらは、静寂、静止、無思考、無時間、それから無であり、人類の意識を変化させるのに中心的な役割を果たすものです。

プレゼンスの兆し

プレゼンスの実践をOrcasWoods1始めて暫くすると、以前とは異なって世界と他の人々を経験し始めます。私たちの経験全てに様々な次元をあたえてくれる、プレゼンスの兆しという質に気づくようになり始めるのです。自分からそうしたことを起こそうと努力するのではありません−これらは、私たちが目覚めてきているという兆し、あるいは証拠なのです。それらはどのようなものなのでしょう。どのように現れてくるのでしょう。そしてそれらの影響はどのように私たちにもたらされ、世界に及ぶのでしょうか。

静寂:私たちを新たな次元へと連れて行ってくれるプレゼンスの兆しのひとつは、静けさです。生まれて初めて全くの静寂を経験すると、私たちはそれがまるで心地よい毛布のように感じられます。または雪がしんしんと全て心配事に降り積もって安心させてくれる感じでしょうか。この静寂の繭の中、私たちは深い安全性と休息を覚え、自分の周りに新たな種類の音が起こっているのに気づき始めるのです−全ての音から生まれる音楽のようなものです。静寂がその気づきを与えてくれるのです。それは電車の中でも富士山頂でも関係ありません。

静止:次のプレゼンスの兆しは、静止です。まるで森の中での平穏な午後のような静止を感じ始めると、静止というのは常に表面化にあるものだと認識するのです。毎瞬間ごと、私たちの心臓の拍動でさえも、その一瞬の核心には静止が存在しているのだと分かり始めます。静止を感じ始めるとき、全ての生命が動きのパターンで満たされ、そのパターンは統制がとれた意味あるものであることに気づくのです−ちょうど魚の一群や風に吹かれてそよぐ叢、また水の動きのように。私たちが静止という次元をもって見るとき、私たちのやりとりにはそれらと同じようなパターンが存在しているのです。

無思考:次は、無思考です。初めて思考がない状態を経験するとき、それは大きな驚きとしてやってSatipatthenaBuddhaきます。意識的な思考が無くなるときというのは、眠っているか死ぬ時いずれかだと私たちは思い込んでいます。ですが、プレゼンスを実践すればするほど、私たちは無思考を経験しているようになります。思考がないとき、私たちは深い安らぎと安心感の感覚に気づくようになります−あたかも全くの休息を得たかのような感覚です。ボディワークの贈り物の一つは、無思考という長い一定時間を過ごせるものにもなり得るところでしょう。そして、無思考が洞察という次元を加えてくれます。無思考の感覚に身を沈めると、思考はそれまでとは異なる中核−私たちの心−から生まれ得るものであることが分かります。またそうした思考は、賢明で肯定的な源泉からやってくるのです。プレゼンスの実践を数多くするほど、無思考が私たちの真実の思考へと連れて行ってくれます。私たちを通して話しかけてくれている声を実際に聞くことができるようになるのです。そうして聞こえてくることは、私たちが話をしている人にとっても大きな驚きであり、贈り物でもあるのです。

無時間:時間が存在しないというのもプレゼンスの兆しです。私たちは皆、無時間という時を経験してきています。ただぴたりと時が止まったようになることもあれば、時が全く消失したかのように感じられる場合もあります。そうした瞬間というのはあまりに尋常ではないので、そういう経験について話す時には畏怖の念を持つものです。子供たちは、大人よりもしばしば無時間を経験します。恋に落ちた時、音楽を奏でたりして活動的な時、つまり全く楽しんでいる状態、そして驚くことに偉大なる発見をする時(科学の歴史における数多くの逸話には時間が存在しないことが語られています)などに無時間という経験をするのです。この経験にはまた、洞察、力強い結論、何かそれまでとは全く違った見地などが伴うようです。なぜそうなのでしょうか。していることに没頭するあまり時間を忘れてしまうからでしょうか。あるいは、そうした瞬間に、プレゼンシングが私たちを真の世界に目覚めさせてくれているからなのでしょうか。

プレゼンスでは、すべての時間と全ての空間がつながっています。問題と解決法、好奇心と創造性、自由と陽気さの一致を経験することができます。おそらく、プレゼンスに目覚めると、私たちは全ての時間と空間という多次元を経験することになるのではないでしょうか。

無:最後にみていくプレゼンスの兆しまたはプレゼンスの質は、虚空あるいは無です。ここまでみてきたプレゼンスの兆しの全てのなかで、無は恐らく最も恐ろしいものでしょう。無は文字通り、空っぽ、何もないという意味です。無によって何も存在しないところへと私たちは連れて行かれる可能性があります。それはしばしば非-現実とも呼ばれるところです。初めは、全ては私たちが知覚するようには存在しているわけではないことに気づくようになります。プレゼンスの実践者であれば、全てが消え去るという瞬間的な知覚の消失を経験するかもしれません。これは、歴史を通したスピリチュアルの達人たちにgalaxy_doubledとっての畏怖の念と謎の源泉でもあり続けた偉大なる虚空なのです。「全ては無であり、無は全てである。」禅の修行者は金剛経を斉唱する中、そう唱えます。これはブッダの教えの中で最も偉大なものと看做されているものです。

全てのものの消滅というのは、私たちの現実経験にたいして「何も知らない」という次元を与えてくれます。現代物理学者たちは、私たちが知覚する全ては波動あるいは粒子であり、存在と非-存在、または存在への可能性の間を行ったり来たりしているのだと言います。私たちのまさに意識と全ての生きる存在は、ある程度存在を求めているということが今や分かってきたのです。言い換えるなら、私たちは継続的に自分たちの経験を創造しているということです。多次元的な経験と宇宙のつながりへの偉大なる貢献者は、無なのです。私たちが知覚し、思いつき、受け入れること全ては、無によって内包されるものであり、内包するものです。私たちが眠っている間は*霊知(ノーシス)となり知られないものであり、私たちが目覚める時には真の知となるのです。

*ノーシス:霊知、覚知 グノーシス(ノーシス)主義と呼ばれる、神の直感的認識の観念を中心とした世紀頃の思想の言葉。キリスト教会では異端視された。

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恐れることは何もない Newsletter #5

プレゼンシング ニューズレター #5 2007年2月

 恐れることは何もない

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 公案

掲題の引用句は、人類の歴史を通して語られ、また何度も語られ続けてきたものです。この言葉を耳にすると、いつでも私たちは衝撃を受けます。なぜなら、私たちの通常の受け取り方からすると、これは全く意味をなさないからです。つまるところここには、恐れや疑いが私たちを安全にし続けていると感じる経験について、何かを教えてくれる叡智があるのではないでしょうか。私たちは、開いた心や全信頼をもつことを、軽率さや未成熟さ、さらには精神的な病とさえ結びつけて考えています。私にとって「恐れることは何もない」という言明は、公案という新しい考え方の可能性に開いていく、禅の精神的な謎解きなのです。人間の苦しみや愛への渇望というレベルにおいては、これは意味をなさないどころか何につけてもこれが真であると確証して欲しいとさえ願うようなものででしょう。しかし、これが物理的な現実のレベルだと、不誠実で自己欺瞞的なように思えます。ですが恐らくそれは、身体を中心にした機能、つまり物理的な脅威から自らを動かすものと、不適切に自分たちを極限状態に置く精神的に生み出される強迫観念とを、同一のものであると私たちがみなしているがゆえにそのように考えるのではないでしょうか。 私たちは、互いを恐れあっています。人間同士互いを恐れ合うに十分なことを学んできているのです。マインドのレベルでの、こうした恐れに満ちた反応というのは、私たちの思考と物理的な行動のパターンづけをするシナプスを形成します。例えば、小さな子供たちが様々な人種で遊んでいたなら、その子供たちは見掛けの違いになど殆ど気にしないことになるでしょう。彼らは、他の人々の身体的な質を自分にも見ているからです。こうしたことから、相違に関する恐れのシナプスというのは、生まれつきではなく恐らくは学習によるものなのでしょう。

病理学
身体そのものは、恐れに執着するようにプログラミングされてはいません。しかし、物理レベルにおける、恐れを基にした制限を保持するための精神的なプログラミングがなされています。身体とともに働きかけをする人々の見地からすると、そうした恐れを基にしたパターンを取り除くのはとても難しいものに思えるでしょう。ボディワーカーや身体を中心にケアをする人々が燃え尽きてしまう理由の一つは、恐れを根幹としたマインドによって保持されている抵抗のパターンを、物理的な圧を用いて圧倒しようとするところにあります。私たちは適切に、症状を拘縮としてつきとめ、指圧からトリガーポイント、深部筋マッサージや構造的統合に至るまで、そうした拘縮とそれに伴う痛みと制限を解放するための様々な手法を、工夫を凝らして見つけてきました。しかしながら、私たちが究極的に発見したのは、クライエントの精神的な不安がある限り、症状のパターンがまた戻って来る、あるいは身体の他の部位に症状が戻ってくるということだったのです。

忠実な僕としての身体
そうであっても、ソマティクスを基盤としたボディワーカーは、クライエントの自覚的な意識を拘縮している部位へと促すことにより、殆ど瞬時に症状の緩和ができることを発見しました。それも、プラクティショナにとっては肉体的な努力は殆どないくらいです。一体ここでは何が起こっているのでしょう。私の考えとしては、プラクティショナとクライエントの間に相互的に参加することを通した信頼というつながりが生まれ、症状と苦しみ両方を作りだした恐れを解放する方へと進んでいく、ということなのだと思うのです。身体というのは、内在的に次のようにできているようです:マインドが信頼するまたは愛するときには;身体は手放すことで反応をする。マインドが不信を持つあるいは恐れるときには;身体は拘縮を維持する、と。マインドと身体は継続的に、そして円環的に互いを反映し合っているのです – 思考、感情、そし肉体的な反応は、お互いを助長し合うのです。恐れは、身体とマインドに交感神経優位の拘縮を生み出す – どちらもその能力を縮めることになるのです。

光を減じる
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一年のこの時期(註:冬季)、地球は全て収縮する方へと向かっていきます。太陽は遠ざかり、寒さと暗さが取り囲み、物理的な生命力は消え去るあるいは地中へと後退します。人間は、生命維持を続けられるよう、十分なだけの蓄えに頼る時期になります。私たちの思考と行動全ての根本は、恐れと収縮の状態となります。私たちは、光と豊富さでそうした恐れを静めることを学んできました。しかし、人間が貯蔵庫を訪れるときには、いつであっても不足するのではないかという恐れが生まれます。私たちは、店で互いの分を得るときには、他(の人々)を凌ぐくらいの量を、そしておそらくそれよりもより多くを手にしようとします。表面では人と幸せに、仲良く見せていますが、内側では恐れを抱き、人を信頼していないのです。

このような時期は、副交感神経反応へと身体とマインドが向かうボディワークを、静かなる確信として受けるのに最適です。地球は休息し、生まれ変わりを待っているときです…そして私たちの身体も私たちに同じ状態を映し出してくれています。痛みが歓びへと、恐れが愛へと変革するのです。ディキンソンのクリスマス キャロルの戯曲のように、貧困/欠乏という恐れから自分自身を引き離す必要があります。『1914年ドイツと英国間のクリスマス休戦』の実話のように、差異の捉え方から生み出される恐れから身を退くことは可能なのです。そして、愛情を持って直接作用するボディワークは、こうした恐れの反応を用いて、個人的にも集合的にも形成してきた病理学的なシナプスを終焉させる手助けができる可能性があるのです。私たちの恐れに満ちた焚き火を維持するには、大変な努力とエネルギーを要します。用心深さと安全性という誤解に基づいた感覚を維持するため、私たちは集合的に、終わることなき恐れのメッセージを消費し続けなければならなくなっているのです。すると個人的には、個人の自由と創造性を失うようになるのです。しかし、私たちの恐れを維持することでのもっとも大きな損害は、愛と喜びを失うということでしょう。

小鳥たちの教え
数日前、シアトルは大変な暴風と雨嵐に見舞われました。その嵐の猛威に先立って、暗闇は増し、雲の層が厚くなり、寒気が流れ込んで水平に雨が降りました。私は外に出て、クライエントが現れるのを待っていました。自然がいかに凝縮していくのかを、私は観察していました…目に見える緑などほとんどないくらいに暗くなっています。嵐による被害の可能性と、どの家も灯りと暖、食料を備蓄するよう注意を促しているのをラジオでも耳にしていました。ふと、私の前にある木にたくさんの蠢きがあるのに気づきましたが、その木には緑の細い枝が垂直に、命を失ったかのごとく垂れ下がっていました。そこには鳥が、小鳥たちが小枝から小枝へと移り飛び回り、羽をぱたぱたとばたつかせ、互いに素早く動き回りつつ木の幹や木の葉から何かを啄んでいます。小鳥たちは何か急いでいるようには見えず、嵐からの避難所を探しているようにも見えません。まるで雨から逃れて家に帰りたいとも思わない子供たちのように、遊んで跳ね回っている感じです。私たちは自分たちの恐れを動物たちに投影し、動物たち自身の知恵や、動物たちが信頼、愛、そしてよろこびを襲えてくれる師となる可能性を捨て去ってしまっていることに気づきました。

その瞬間、私たちが自らの恐れに満ちた宣伝活動に埋もれ、身体で生きる真の喜びからこれほどまでにも遠ざかり、さまよっていることに私は気づいたのです。楽しんでいないのは、私たちだけです。創造物の中で、生命という贈り物に感謝するのをずっと忘れているのは、間違いなく私たちです。物理的な安全性に埋没するあまり、私たちは自分の身体は完全性と充足に欠けていると思い込んできてしまったのです。

哲学者の石
「恐れることはなにもない。」それが本当ならどうでしょうか。私のニューズレターの中心主題に戻りましょう:プレゼンシングです。身体に直に働きかけるという恩恵に浴している私たちは、私たちの人間性を蝕む、恐れという伝染病を覆す手助けができます。三つの基本的な仮定が助けとなるでしょう:身体はいかなる時も嘘をつかない;身体は今の瞬間にしか存在しない;身体は取り入れ、吸収し、そして手放すよう設計されている、という三つです。これらの基本的な見地から、私たちはクライエントを勧誘できます。ちょうど小鳥たちのように、今している経験へと入るようにするのです。それによって、クライエントが信頼と愛の感覚を育むのを助けるのです。恐れと孤独ではなく。間違っていることを直すより、私たちが自分でするように、クライエントが自分の身体に耳を傾けられるよう手助けするのです。それにより、クライエントも私たちも、努力の不必要さ、完全性と一瞬一瞬に注がれる感謝を感じ始めるのです。そしてついに、身体に耳を傾けることで私たちは生命に耳を傾けることを学びます。それはいつであっても、一瞬ごとにそれ自身が新たに生まれ変わっているものです。またそれと時を同じくして、私たちに完遂できることがあります。境界線を呼び寄せることを学んでいた恐れという瀬戸際が、相互理解と赦しへと溶解していくのです。身体を中心としたセラピストたち、またそれを学ぶ生徒たちは、生命の真の錬金術を学び、伝え始めることができます。つまり、冷たい灰色の、収縮した重苦しい恐れを基にした安全性の導きから、私たちの本来の輝かしさである、黄金の愛情と喜びを基にした豊かさへと変えてゆくのです。この談話を終える、最後の原理は以下です:恐れとプレゼンスは共存できないのです。

プレゼンシングによって私たちの居所を見つける
Martin-Buber
「それは、信頼についてのより深い側面を理解し始めたすぐ後のことだった。こうした信頼というのは意志をもって始まるのではなく、進んでする気持ちから始まるのだ。私たちの旅が紐解かれていくのを助けてくれる、内なる声に耳を傾け始める。私たちの運命から現れ出てくるものへの私たちの信頼が、こうした種類の信頼に横たわる構成要素なのだ。’委ねる状態…この瞬間に自分たちが出逢う必要があることが何であれ、自分たちの運命が手にできると分かっているという状態だ。この時点で、私たちは関係性を未来と置換する。この信頼の状態でことを進めていると、宇宙がその姿をあらわす中での必要不可欠な一部に、自分たちを見るのだ。」マルティン ブーバー『われと汝』

パーソナル プレゼンシング – エクササイズ18 : 今…今…今…

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全ての瞬間がです。時間の中では瞬間はその刹那ですが、は永遠です。あなたはこの瞬間に呼びいれられ、その度ごとにという言葉を耳にし、口にするのです。このエクササイズは、ナウ(今)イング:いまにする(これはつまり「ノウ(知る)イング」?)、つまり、今の瞬間にし続けて1日を過ごす、目覚めの一日の前哨戦です。瞑想して目を瞑りましょう – 身体の内側のスキャンから始めます。身体の中に入るたび、その身体の部位に「今」と言ってみます。あなたが感じる、どの(知覚)感覚もです。なぜならその感覚は今にしか存在しないからです。スキャンをし終えたら、身体の特定の部位に焦点を当ててもいいでしょう。その身体部位に焦点を当てるときに、呼吸とを合わせてみるのもいいでしょう。「今」という言葉を言いながら、その身体の部位に呼吸を吸い込むのです。「今」という言葉を言うたびに、その言葉の影響を感じるままにしてみます。その言葉の効果は、暑い日の水しぶきや、穏やかな目覚めのキスをおでこにしてもらうような感じです。その経験そのものが、そのものを伝えてくれます。一回一回のが、永遠への入り口なのです。その経験は累積します。練習すればするほど、あなたは時間を仲介物とは感じなくなり、流れにより気づけるようになります。そしてプレゼンスの兆しにより気づけるようになります:静寂、生死、平穏、そして圧倒的な愛。あなたの最も深遠なともだちが、あなたに近づいてきます – あなた自身も、近づいていくのです。

フォーカシングとプレゼンシング パート II Newsletter #4

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フォーカシングとプレゼンシングパート II  プレゼンシング ニューズレター #4

プレゼンシング エクササイズ
相手に耳を傾ける間のプレゼンシング

「それから(当時)私が何をするにせよ、癒しが起こるばかりだった。その時、ただ私がそこにいることが解放させ、助けていたのだ…。私がリラックスでき、私という先天的な核に近づいていられる時…またはそうした瞬間瞬間に…まるで私の内なる魂が相手の内なる魂に達して触れたかのように。」カール ロジャース、「クライエント中心、人中心、セラピーのアプローチ」1986

相手に耳を傾けている時のプレゼンシング:おそらく、自分の中でプレゼンスの状態でいるのが最も難しいのは、他の人と話している時ではないでしょうか。特に、それが仕事に関わる人や配偶者、あるいは過去に喧嘩をした人の場合は難しいものです。通常は、自分一人でプレゼンシングを実践する練習が重要になります。そうすれば、あなたのコントロールをしようとする思考が、人との会話に作戦を持ち込もうとしないで済むからです。

会話をしている最中、マインドがプレゼンスの状態に居られるようにするには、いくつかの方法があります。まず、身体をチェックし、まさに今感じている(刺激)感覚に気づくことです。自分の身体の様々な部位を内側から感じていくうちに、相手の人の表情や、言葉によらない身体の信号により多く気づけるようになっているのが分かるでしょう。

「私は本当にこの人に耳を傾けているのか、それとも自分を聞いているのだろうか」と、自らに問いかけてみましょう。主に自分自身に耳を傾けていることがわかったら、相手が言っていることを、思いやりを持ってもう一度言ってもらえないかきいてみましょう。腕時計を見たり遠くを見つめたり、退屈や苛立ちといった言葉にならない合図を出して相手を遮らないようにして下さい。相手が言っていたことに一区切りついたようであれば、返答する前にプレゼンスで間をおきます。相手の人が一通り話したと確認できるまで、言葉を発しないで静かに聞くのです。静けさの中で耳を傾けることに慣れましょう。それがプレゼンスの兆しだからです。慣れていくほどに、より心地よくなっていきます。

もしも相手がいっていることがそれでもはっきりしない場合は、明確にするための質問をします。たとえば「…と言ったのですか、それとも私が間違えて聞いてしまったのでしょうか」というように。自分の身体の内側のフェルトセンスからあなたの言葉がやってくるに任せてみましょう。がっかりするようなことにはなりません。全ての会話が、プレゼンスの中から育まれる機会なのだと考えてみて下さい。そこから生まれることとその贈り物がやってくると、どのような会話の内容よりも、その世界が遥かに重要なものになります。真に耳を傾けることで、相手とともにその瞬間にあることを、自分で学べるようになるのです。

なぜフォーカシングとプレゼンスなのか

私たちの身体は生きています…身体は、私たちの知覚という五つの鍵穴の向こうに孤独に潜んでいるわけではないのです。状況への身体感覚がなければ、私たちは自分がどこにいるのか、あるいは何をしているのかもわからないでしょう。
ユージーン ジェンドリン
Man and World(人と世界) 1992

フォーカシング:身体中心のプレゼンシングと類似したアプローチ法です。心理学者であり哲学者でもあるユージーン ジェンドリンは、クライエントが心理学的なパターンを超えて成長するのを手助けできる一つの方法は、クライエント自身が自分の内なる環境に耳を傾ける方法を教えることだと発見しました。彼は、この傾聴の効果をフェルト センスと名付けました。クライエントが、自分のフェルト センスに耳を傾けられると、通常の精神的また感情的な反応よりもさらに深い所からの反応が表面化するように思えたのです。クライエントが自分のフェルト センスをチェックし、それについて好奇心を持てるよう助けてもらうと、この内面での傾聴は治療的なブレイクスルーを生み出しうるのです。傾聴と身体のデータを冷静に観察することで、クライエントは、身体が洞察と新たな理解へと到達させてくれていると気づくようになり得るのです。

セルフ-プレゼンシング、セルフ-フォーカシング:フォーカシングが、プレゼンシングの一つの形態であることには私も同意します。フォーカシングでもプレゼンシングでも、もっとも難しい分野の一つはセルフ-プレゼンシングまたはセルフ-フォーカシングです。自分自身を見つめるときというのは、いとも簡単に気が散るものだからです!個人的な歴史や個人の嗜好よりも、内側に到達できたならより多くのことが得られます。セルフ-プレゼンシングにしっかり入ることができた時、一つの入り口地点としてこの継続的な瞬間を構築します – 空間と時間の中では、プレゼンシングが私たちを全ての創造物と繋げてくれるのです。カール ユングは、私たちの意識のマインドは宇宙のマインドとの直接的な繋がりであると述べているのです!セルフ-プレゼンシングは、自己中心的であることと同じではありません。自己中心的というのは、通常の思考と身体的な反応のパターンに埋没している状態です。それらは判断と自己疑念、幻想や無原則な思考も含んでいるかもしれません。またそれらはしばしば罪悪感、恥、恐れを含んでいます。

より深く:プレゼンシングは、そうしたパターンを扱う方法であり、私たちを異なるレヴェルの理解へともたらしてくれるものです。マインドで何が起こっていようとも、プレゼンスで居続けられるようにしてくれる何らかの実践をすることはできるのです。一定のものとしてプレゼンスを定着させたなら、気づいている意識の中核が、もっと深まる方へと変化します。身体は、それは今の瞬間にしか存在しないものですが、私たちの試金石となってくれます。セルフ-プレゼンシングによって、私たちはよき聞き手となり、自分自身の観察者となるのです。そして、聞いている内容で相手を判断したり修正したりすることなしに、相手の話に耳を傾けられるようになります。

身体-中心:いかなる時も、身体の内側で起こっている全身の現象が数多く存在します。私たちは、身体の内なる信号システムを通し、そうした感覚を観察するのを学べるのです。また、私たちは自分の思考と、知覚に伴う感覚を追い続けることもできるのです。私たちは、まるで新たな動物の種を観察してノートをとるかのように、好奇心を持って自分自身の内なる環境を観察できるのです。これらの観察は、練習とともに研ぎ澄まされていく注意力の訓練を要します。

フェルト-センス:その瞬間にある、というフェルトセンスの機能は、その人自身の真実への入り口を開きます。身体というものは、感じることと(刺激に反応するなどの)感覚という純粋な言語をもって常に交流してくれているものであることに意識的に気づくようになります。話し言葉のように、身体の感覚の言語は様々な語彙を持ちます。感覚、反射、色、臭い、言葉、そして画像などです。この言語がより意識的になり、言葉によって表現されると、身体中心のコミュニケイションが、慣習的な思考パターンや身体的な緊張から私たちを引き離してくれる方に向かっているのが分かるようになるのです。

フェルト-シフト:最も重要なこととして、慣習的な思考や反応のパターンを取り消す、あるいは解放するときに、この緩みが身体で、副交感神経優位の反応へ向かう心地よさとして感じられ得ることです。それは、温かさ、リラックスの感覚、柔らかさや固着していたものの解放などです。そして、タッチを用いているプラクティショナは、クライエントの身体で起こっていることとしてこれらの変化を感じ取れるのです。ジェンドリンは、こうした身体的な経験を以下のように呼びました。フェルトシフトです。それはマインドの変化または洞察の適正さの確認として身体的に伴うものです。新たな言語を学ぶように、自分のフェルトセンスとフェルトシフトを、特に信頼を持って自分で行いながら実践の腕前を磨いていくわけです。

プレゼンスとフォーカシング:私がこの記事で述べたいのは、フォーカシングを行っている人により、フォーカシングが自覚状態としてのプレゼンスを獲得できるものにするのは何なのか、ということなのです。セラピストが、クライエントにフォーカスの仕方を教えるとき、セラピーが精神、感情、肉体あるいはスピリチュアルなものいずれであるにしろ、そのプロセス(過程)によってクライエントはより深く自己理解と内なる導きの大変力強い源泉へと開けるようになるのです。この源泉というのは、ジェンドリンが内在的と名付けたものですが、私はこれを深い自己原初的マインド、あるいは存在と比較して考えてみようと思います。なぜなら、身体の内的環境がこれほどまでにプロセスの中で鍵となる役割を果たしており、身体でのフェルトセンスはその一瞬間のみに起こるのですから、身体を中心とした全ての手法は身体-マインドあるいはソマティクス的な意識へとクライエントが開いてゆける完璧な機会を与えるものだからです。私は、この気づいている意識のレヴェル、つまり真のクライエント中心のヒーリングのレヴェルを信頼しているのです。

すべてをひとつに-ボディワーク フォーカシング グループ(BFG)

BFGの始まり:コスタリカの美しいプンタレナスで2004年、国際フォーカシング会議において身体志向(をめざす)プラクティショナたちのグループが集いました。私たちは会議前会議を行い、国際会議中は休み時間や食事時間にもお互い集まって話し合いました。波しぶき、爽やかな海風、イグアナや南国の花々とココナツの木々という美しい環境のもと、私たちはボディワーク、ムーヴメント(動き)、フォーカシングとダイアド(二方向の)タッチ、そしてグループでのフォーカシングを、新たな真実が生まれ出るままに実践しました。コスタ リカ、アルゼンチン、パナマ、スイス、日本、イタリア、米国、英国、そしてベルギーから集まった仲間たちです。男女は同人数で、年齢幅は30歳から88歳となりました。メンバー全員がフォーカシング経験者です。何か新しいものが生まれてきている、その強い感覚がそれぞれの中で感じられていたようでした。私たちは、ここでの経験を他の人たちにも届けられるような、未来におけるプレゼンテーション(発表)や学会の可能性さえ感じ取っていました。

身体:これらの分野と職業全てが共通して抱えているものがある。それは具現化された居住者のことである、つまり居住人と外の世界の間で伝達する手段としての身体、居住人のマインドの投影と実験をするものとしての身体、居住人の外に向けての表現をするものとしての身体、外の世界の受信機としての身体、そして居住人の精神の家としての身体、である。

指示的ではない探求:私たちを結びつける二つの基本的現象があります。職業的なタッチと運動療法はいかにフォーカシングのプロセスに作用するか、またその逆はどうなのか。二つ目は、身体とフォーカシングの間の関係性とはなにか、ということです。職業として触れることをしない人には陳腐なものに思えるかもしれませんが、日常的に触れる私たちのような人々にとっては大変意義ある考察です。ここでの中心は、身体での(気づいている・自覚している)意識のための諸技術と、フォーカシングでの指示性をもたない大変力強い原理との再統合にあります。私たちは、グループでのプロセスから特定の真実が現れてきたのを感じられました。それはともすると、フォーカシングが理解され、実践され、教えられる方法への大きな暗示があるのかもしれないものでした。

内在性の発現:職業的なフォーカサー(フォーカシング実践者)は皆、クライエントのプロセスをサポートするにあたり、言葉を用いたセラピーでの穏やかかつ指示的ではない方法でクライエントの随伴者となることを学びます。アプローチ法はかなり多岐にわたることになるかもしれませんが、それらは全ての中核にはある信念があります。それは幾度も証明されてきたことですが、クライエントの中に内在的な全体性があらわれようとする、というものなのです。プロセスが感情的、心理学的、スピリチュアル、物理的あるいはそれらの幾つかが組み合わされて表面化しているにせよ、その内在的な全体性がプロセスの真の建築者なのです。

ソーマ(身体):基本的に、フォーカシングは心理学の分野で発展しました。心理学はいつであっても、医学との繋がりを維持しています。フォーカシングでの身体の見方として、身体が有用な目的物であるという概念化をするよう傾向もあり得るのです – 有用、つまり身体が思考、経験、感覚を大変純粋な、汚されていない方法で繋いでくれるからです。しかしながら、フォーカシングはまだ身体的な瞑想経験の真正な学びとはしっかり結合してはおらず、特に自覚している意識で満たされているソーマあるいは身体という概念とは結びついていないといえます。身体を中心とした職業は、マインドと身体の現象的な繋がりをより実体感あるものとして理解するところにきているようであり、またクライエントを内在性と繋げる直接的な方法でもあるのです!

ボディワーク フォーカシング グループへのご招待:コスタ リカでの2004年の会議の終わりに、ボディワーク フォーカシング グループの参加者たちは自分たちの国際会議を開く必要があるのではと考えました。2007年まで自分たちで独自のアプローチを発展させ続け、お互いにこの感覚を生かし続けて次のフォーカシングの国際会議に臨もうということになりました。来年がその集まる年になります。イタリア人のメンバーが、ナポリ湾にあるイスキア島でその会議をしたらどうかと提案してくれました。ローマ人たちはここを休暇の場として利用していましたが、たくさんの温泉があるところでもあります。イスキア島から東を眺めるとヴェスヴィウス火山が見え、ポンペイとヘルクラネウムがあります… (以下、本文は2007年ボディワーク フォーカシングの案内となるため省略します)

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*ボディワーク フォーカシングの次の会議は、2017年開催を検討しています。開催地は現在メキシコが候補にあがっています。詳細はウェブサイトなどで随時お知らせしていきます。どうぞお楽しみに!

フォーカシングとプレゼンシング パート I Newsletter #3

 

フォーカシングとプレゼンシングパート I

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今回のテーマ: 今回は完成に時間がかかりました。二回に分けてお届けすることにします。パート I は、フォーカシング、プレゼンシング、そしてテーブル トーキングのクラスを発展させるに至ったその他のアプローチ法についてお話をします。

プレゼンシングをみるところから始めましょう。言葉を用いた、プレゼンシングのための古典的な方法があります。小乗仏教の僧侶たちは、身体を使ってなされる行為やその感覚を、実行(感覚)しつつ心のうちに名付けをすることで通常の作業を行いながら、瞑想を継続します。この実践は、ネーミング(名付け)と呼ばれます。ネーミングによって、瞑想家たちは今の瞬間にしか起こらない現象に焦点を当てることを学ぶのです。少なくともマインド(精神)の一部分は今の瞬間にいられるのがこの効果となります。これによって、考えたり強迫的に喋り続けたりするマインドの一部を沈める効果が得られます。治療的な関係性のなかでも、私たちはこの同じ技法を適応することができるのです。

フォーカシングは、カール ロジャースの弟子で心理学者哲学者でもあるユージーン ジェンドリンが発展させた技術であり、クライエントにネーミングと似た効果を生み出せるものとなりました。トマス ハナによって著されたソマティクスは、クライエントの身体のそれぞれの部位での感覚的な(気づいている)意識を増大すことにより、意識の成長を生み出す重要な過程を具体化します。マルティン ブーバーは、『我と汝(I and Thou)』の中で、ふたりの個の間で互いに汝となる(プレゼンシング)ことが起こる今の瞬間の出会いの場が作られることについて述べています。
私にとって、プレゼンシングの概念は、こうしたアプローチ何れにも共通する要素です。テーブルトーキングのクラスはこうしたアプローチ全てを組み合わせ、クライエントがセルフ-プレゼンシング(自分で行うプレゼンシング)を通して自己ヒーリングを経験できるよう、ケアをする人々が言葉でのやり取りの力を用いられるようにするものなのです。

パートIの最後では、マーガレット ジャコビー ロペス(Margaret Jacoby Lopez)の、Sing Past Winter(過ぎ去った冬を歌え)を考察してみましょう。ああしたセルフ-プレゼンシング(自分で行うプレゼンシング)を通して、想像力が解き放たれる例を示してくれるものです。

ゼロの発見プレゼンスの発見

数学におけるゼロのように、プレゼンスの「何もない(no-thing-ness)」ということを定義するのは容易ではありません。ゼロのように、プレゼンスには客観的な現実性もないように思えます。また、私たちが理解する治療的な関係性を変える術がプレゼンスを用いることにあるようには見えもしないでしょう。プレゼンスは、ゼロのように、測定可能な現実性を伴わないプレースホルダー(訳注:数の十進法表記で有効数字としての0)なのです。 ゼロは、概念的にまったく新たな次元へと私たちを連れて行ってくれるだけのものだ、とあなたは言うかもしれません。ゼロは無を表し、外国(アラビア、インド、中国)の文化から輸入されたものなので、魔術の秘密形態と見なされ、極めて堅固に抵抗されたのです。ゼロと同じように、プレゼンスはまったく物質的なものは表しませんが、意識のまさに新たなレヴェルを示唆しています。例えば、深遠なる静寂、静止、空と無-思考などといったものが、私たちの現実への感覚全体を変化させうるのです。そのプレゼンスの贈り物は、あたかも無から生み出されたもののようです。そして、すべての苦しみを楽にし、すべての病を癒し、中毒や慣習的な行動から解放してくれ、さらに私たちを新たなる世界へと目覚めさせてくれるのです!ゼロの発見はわかりにくいものですが、恐らくは太古のものでしょう。またそれはそれまでとは異なる無形の理解だったために、秘密裏に伝えられたのでしょう。ゼロの概念が最終的に受け入られたことで、数学を永遠に変化させることになりました。プレゼンスの実践は、恐らくゼロの秘密よりもさらに古いものでしょうが、しかしその原理を自ら進んで学び、まったく違ったところ、つまり好奇心と謎というところから人生を見てみようとする人々にしか通常伝えられなかったのではないでしょうか。プレゼンスの実践は、きっと全てのスピリチュアルな伝統の核心に存在していたはずです。浄化、祈り、禁欲といった全てのステップを引き継いだ者…ブッダや砂漠のイエスのように、プレゼンスへ、全ての最も深い謎へと到達する人々…あるいは時に、浄化も祈りも禁欲もすること全くなく、瞬間、そして継続的な永遠であるへと自らを合わせようとする人々。

フォーカシング、ソマティクスと自己主権:ボディワーカーのためのブレイクスルーとなるのか?

実践の範囲:何年にもわたり私は、セッションで起こる、変化の状態へと向かっていけるようなボディワークのアプローチを探し求めてきました。ほとんどのマッサージのトレーニング過程では、生徒たちの教育の中でこの部分を避けています。それは、(こうした状態は)マッサージというリラクゼーションの副産物であると(マッサージ教育者たちが)見做してきたからです。プラクティショナは、クライエントのサポートをすることは教えられますが、こうしたクライエントの通常ではない意識状態を鼓舞することはしないのです。なぜなら、そうしたことがプラクティショナを「実践範囲外」へと連れて行ってしまいかねないからです。

変化の状態:私が教えるクラスやスーパーヴィジョンのほとんどで、ある程度頻繁に起こる状況としてこれらの状態が報告され、皆さんが訝しがります。「こうした状況が起こった時、私はどうしたらいいのでしょう」と。今回のプレゼンシング ニューズレターでのマーガレット ジャコビーの本の書評では、身体的な症状という治療を遥かに超えたところへと私たちを連れて行ってくれた過程を通し、私たちが進んでクライエントと共に存在した場合、何が起こるのかを示すものとなってくれています。

フォーカシングとソマティクス:クライエント達が経験するスピリチュアルな始まりといったものは、私が以前に学んだものとは異なるサポートをするに値するものだ、そう私は認識するに至ったため、大学院でスピリチュアル ディレクターになるためのトレーニングを受けました。大学院在学中には、クライエント自身の真実が自然に生まれ出てくるのを促す、クライエント中心の手法としてのフォーカシングに出会うことになりました。その時点では、私は既にソマティクスを基盤としたボディワーク、特にトマス ハナによって示されたものが(私が目指すものと)同じ方向性として目指せるものではないかと分かったところでした。フォーカシングは、クライエントがいつであっても主権者であると強調することで、プラクティショナが過程を読み違えてしまう罠を避けているように思えました。のちに、もう一つのフォーカシングの指導指針が私に大きなインパクトを与えました。それは、プラクティショナはセルフ-フォーカシングの実践を学び、他の人からのフォーカシングのセッションを定期的に受ける、というものでした。それにより、クライエントが自分自身の意識的な気づきへと開いていくことに同伴するには、ずっと適切な位置にプラクティショナ自身がいられるようになるのです。

スーパーヴィジョン:私は大学院で、クライエントの過程をサポートするために発展させていた言葉でのやり取りについて、実際のクライエントとのセッションを実験材料としてよいという許可を得ました。私は数多くのケーススタディを書き出し、スーパーヴィジョンに持って行きました。スーパーヴィジョンのおかげで、私は自分の洞察と直感を用いて「クライエントを誘導している」ことに気づきました。このフィードバックは大変有用なものとなりました。私はこのことで、クライエントの過程を横取りしてしまうようなことにきちんと気をつけられるようになったのです。そしてクライエント自身の観察をより信頼する方法を学んでいきました。「専門家」たるよりも、よりよい聞き手になるということに重きを置くようになり始めたのです。マルティン ブーバーを読んだ時、セラピーの関係性の中で起こる「出会い」が神聖なものであることを認識しました。つまりそれは、両者が聖なる仲介者へと開いていくからなのです。

自己権威:トマス ハナを読んだ時、私は、クライエントがソマティクス的に気づいた意識を持てるよう手助けしたいととても強く感じていることが分かりました。ハナがそこで触れていないのは、ソマティクス的な経験を通して起こりうる、神聖さへと開いていくことについてでした。神聖さへと開いてくことが可能となる時、クライエントの人生全体がよりよいほうへと変化しうるものだと私は分かりました。のちに私は、このことを自己創造、または自己権威と名付けました。プレゼンスの状態になる人は、その人自身の人生に意識的に権威を持つようになるということなのです。それは、すべての経験、過去、現在、そして未来全てにおいてです。非難や被害者意識のエネルギーが、自立心へと変容するのです。自己権威/主権を受け入れることで、プレゼンシングが内なる経験と外の経験とを繋げてくれます。両経験は互いを映し合い、それはクライエントの諸経験がその人自身の創造性の力となっていくのです。 

テーブルトーキング クラス

ジャック、このクラスとクラス内容の持つ効果にお祝いを述べたいと思います。私は長年、「マッサージテーブルでのワークの間の静けさ」というほとんどのトレー二ングの形式(やり方)が好きではなかったし、様々な方法で言葉でのコンタクトをとれるよう生徒たちに勧めてきたからです。沈黙が責任回避になることがあまりに多すぎます。話し続けて下さい。」

ディーン ジュハン、Job’s Body(ヨブの身体)の著者、20067月

テーブル トーキングのクラスは、私たちとクライエントとの経験とフォーカシングの多くの原理、ハナのソマティクス、プレゼンシング、アクティヴ リスニング(能動的傾聴)、そして変化した意識状態を取り巻く倫理的な諸基準について扱います。手法としては、ボディ スキャニング、呼吸と内側でのタッチを通したクライエントの相互作用、プラクティショナのナレーションと感覚できる刺激、クライエントの名付け、フォーカシングのようにソマティクス的な経験のための内的な語彙の発展過程、そしてフォーカシングでのフェルト-シフトのような身体-マインドの気づいている意識での変化などを用います。

言葉:以下は、ワシントン州AMTAのために書いた記事の抜粋です。それはプラクティショナが、言葉でのやり取りをもってクライエントに正当に(合法的に)付き添うことができるようになるのを意図したものです。それから私は、同僚であるシンシア プライス博士と共にテーブル トーキングと呼ばれるコースを発展させました。彼女は、身体に触れられた時に解離状態になる女性たちを言葉でサポートする研究をしていました。シンシアの研究レポートは、ボディワーク アンド ムーヴメント セラピー(ボディワークと運動療法 英語版のみ)という雑誌でお読みになれます。私たちは、プラクティショナが付加的に学べるよう、お教えしたい言葉でのサポートを細心の注意をもって段階的に構築しました。起こること全てがソマティクス的に確認できるよう、プラクティショナとクライエント間で身体を中心とした対話であり続けるような手法を作りたい、そう私たちは願っていました。

テーブル トーキング:言葉でのやり取り ボディワークに欠けたパズルピース
言葉は、プラクティショナとクライエントをひとつにする友人ともなりうるものである。私たちの言葉とクライエントの言葉は、タッチを通して起こるやり取りを、更に意識的なものにできるのだ。言葉が、組織の障壁を迂回する伝達者となり得るのである。言葉は、身体から起こってくる感覚の同伴者になれる。言葉は、身体の中深くに埋められた情報を取り戻すことができる。言葉は、クライエントが耳を傾けられるようにする感覚の状態を引き出せる。言葉は、身体の言語を通訳するのを助ける写本となり得る。言葉は、気づいている意識が育つ時に起こる変化に色彩を与えられる。言葉は、痛みと恐れの場における安心感とサポートになり得る。そして言葉は、お互いにセッションの道を見極める道標ともなるのだ。

この論文の中核を成す主張は、身体的な反応と直に関係する言語作用が固着しているパターンを解放することと、それがクライエントの教育において不可欠ことにある。ボディワーカーは経験上、身体が嘘をつかないことを知っている。また、言葉を用いるセラピストのほとんどが、身体で感じられる経験には根差さないコミュニケイションに依拠していることも私たちが知るところである。身体の感覚というのは、心地よいものでない限りは不快で苦痛なものとみなされる。ほとんどの人々がセッションに、身体についての物語を携えてやって来るものだ。感じることを学び、身体の感覚に耳を傾けることを学ぶと、私たちは感情、思考、そして感じることと感覚、さらに洞察と関わる経験と出会うようになるのである。
クライエントが、身体が自分を裏切ったのでもなければ身体が罪悪感や恐れの源泉でもないと発見するとき、そのクライエントの同伴者となることは、私たちの役割の一つである。事実、身体は私たち一人ひとりにとってよき忠実なる僕(しもべ)なのだ – 身体は、私たちが内面で扱っていることをまさにそのまま映し出してくれるのだ。身体は、並外れた伝達者なのである。愛を感じたなら、身体は、痛みが伴うようなときでも素晴らしい感覚の信号を送ってくる。恐れや怒り、罪悪感を感じるなら、私たちの身体は不快な感覚としてそうした感情を映し出すのだ。ボディワーカーとして、私たちは自分の手と知識ある経験を通し、身体の言語に常に耳を傾けているのである。

私たちが働きかけている身体の部位で、していることと手で感じることを、評価を伴わない言語で叙述する言語活動を行うとき、クライエントの身体に関する意識が育つひとつの段階が生まれてくる。身体の言語の導きは、私たちが焦点を当てている部位に、クライエントの意識的な感覚の気づきを引き出す。つまり、身体的な意識的な気づきという大変重要な部分が目覚めるのだ。また、私たちが(クライエントの身体に)置いていた手を離したときには、クライエントにワーク(施術、共に行ってきたこと)の影響を感じ取り、その身体部位を内から経験するよう言葉で伝えてみてもいい。クライエントがその身体部位のフェルトセンスをもったなら、シンボルや意味などがあがってくるだろう。もしかすると、視覚的あるいは聴覚的な経験も生まれてくるかもしれない。ある身体部位が意識的に探求されると、通常クライエントはその部位で、痛みとは異なる感覚を感じていることに自ら気づくようになる。そうした際に発せられる言葉を、プラクティショナが鏡のように返してあげると、クライエントが感じていることを叙述するのを、さらに洗練していく手助けができるようになるのだ。
テーブル トーキングからの抜粋 (米国ウェブサイトに記事全編を掲載)©Jack Blackburn, 2003

マーガレット ジャコビー ロペス著 Sing Past Winter (過ぎた冬を歌う)書評

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丘の大地を黄昏が覆い
夜へと帰った梟の羽撃き、それがこれから始まる。

暗闇はあたかも草叢から現れたかのように
ちょうど木々の上での出会いに空から降りてくる

この全ての瞬間すべて音もなく…耳を澄ましなさい

Sing Past Winterより, M. Lopez

前回の「プレゼンシング」は、私が「ヴァージニア」と名付けた女性の慢性的な痛みについてのケーススタディを含むものでした。彼女の正体を明かしましょう。マーガレット ジャコビー ロペスが、今号で彼女の書評を書くことを許可してくれたからです。彼女と一緒に行ったワークについて、もう少しお話をするところから書評を始めましょう。マーガレットとは、約3年間にわたって共にセッションを行いました。その間、私はボディワークとスピリチュアルカウンセリング両方を彼女に行いました。私たちは、彼女が身体で感じることに言及できるようにする方法を、毎回発見することになりました。彼女の手術によるトラウマが起こるまで、マーガレットはシアトルで成功をおさめている芸術家でした。ケーススタディで示したように、マーガレットは自分の痛みをプレゼンスする方法を-様々なやり方で-学びました。彼女の痛みと経験により、セラピーの過程が圧倒されそうになったことも何度かありました。

彼女の本の書評と彼女とのワークの背景をこうしてさらにお伝えする理由は、読者の方々と同僚の皆さんが、マーガレットの進んでしようとする意思と彼女の身体の経験を使おうという勇気、特に痛みを彼女自身の魂へと入ろうとしたことを通して驚くべき深遠さに到達したことを理解されるであろうと考えたからです。プレゼンシングをしている間、彼女は異次元へと入って移動するなど、いくつもの驚きに値する出来事を経験しました。彼女はそうした経験の間に、自分は決して孤独ではないと認識したのです。彼女は心の中で知らずこう言っていました。「神は痛みの代わりに贈り物をくれたのだわ」と。彼女は、自分の内側で詩が聞こえ始めたので、聞こえたものを書き留めるようになりました。言葉の深みと新鮮さ、その概念は彼女を驚かせました。彼女は、セッションの始めにそれらの詩を私に読んで聞かせてくれました。それらはあまりに深遠だったので、私は彼女が、彼女の内なる教師に耳を傾けているに違いないと認識しました。マーガレットは事実、それ以前に詩を書いたことがないのを私は知っていました。

一連の詩の始めの部分は、儀式と秘蹟の隠された謎を訪ねるものです。マーガレットはキリスト教聖公会の教えで育ち、彼女の父親はオーストラリアの有名な牧師でした。これらの大変個人的な詩は、彼女に新たなメッセージを伝えているように思えます。彼女は、キリスト教の秘儀を教えられていたのです。言葉と文章は、彼女がそれまでに聞いたことなどないものでした。それらの多くの概念は、アルケミスト(錬金術士)たちの記したものと大変似ているものだと私は彼女に伝えました。彼女はそれから程なく、それらの概念との共鳴を強く感じるようになりました。

ちょうどその頃、最後の時を迎えようとしていた父親の元に行くため、マーガレットはオーストラリアへと向かいました。その間も彼女の詩は続いており、錬金術とのつながりにより意識的になっていました。彼女は、有名なユング派のセラピスト、マリア フォン フランツによる錬金術の本についての本の中で印刷された、自分のインク画の一つを思い出しました。20年間で初めて、マーガレットはその本を開きました。そして彼女は、彼女の絵の数ページ前にある有名な16世紀の錬金術士ジェイコブ ボームのなしたことと、彼女の描いたものとの間にとても強い結びつきがあることを発見したのです!彼女の父親が他界した後、こうした新発見などもあったため、マーガレットは休養と探求のための時間をとりました。その時もそれまでのように、彼女は自分の痛みが数多くの内なる扉を開く入り口であることを意識していました。その間、彼女の詩が変化し始めました。全く新しい詩作が生まれ出て、絵画にも新しいアプローチが生まれ、この新しい詩を表現するかに見える錬金術的な過程が現れたのです。

Sing Past Winter は、大変創造的なワークの後の時期から育ったものです。この本の言語は「受肉的」です。それは私の意味するところとして、身体に関連することすべてがスピリチュアルな対話であるということです。身体部位や分泌液を通して神について語るのを、弁解するつもりはありません。善悪を学んだことのない裸の子供のように、これらの歌には恥など存在しないのです。そして私たちは、このことを喜んでいいのかもしれません。なぜなら、これらの歌は私たち自身の身体の純粋さ、私たち自身の裸の好奇心、身体の愛と喜びの発見、そして私たちの魂の肉体的な存在を表現しているからです。彼女のプレゼンシングの言葉で、私たちのためにマーガレットが身体に語らせてくれています。こうした身体の歌は、身体の賛美歌であり、オープンで野性味に溢れています。あるものは懇願的で、あるものは感謝にあふれ、痛々しい格闘もあれば法悦的な愛と降伏の歌もあります。長年にわたって身体とワークをしてきている私たちには、こうした歌の数々が、聖なる(肉体という)器を通して生じている生命があるところとしての身体を復活させるのを確認するものとなるでしょう。その器は聖なるものであり、私たちが入り込んで経験し、表現し、この地球上での生命から離れる時には手放すものなのです。

その時人間という入り口を通して私は入り 

過去を引き抜く 私の身体の呼吸 その笛が奏でる。
私の脳細胞を超えて 知を切り離す。私は私の中にいなかった。
私の視界をまったく超えたところに
開かれた展望。

私の影が光に塗り込まれる
私の裸体は備え付けられて。
私の幼少時代の震え、私の情熱の赤い弓、
椋の木の蜂蜜 たっぷりと ほっとさせてくれる、
私の両手の器は記憶でいっぱい
私は誰?

From: Sing Past Winter, M. Lopez
肉体は、この本全編を通し、彼女の芸術作品によって、また彼女の肉体瞑想の言葉で晒け出され、祝福されています。肉体は実際聖なる器なのです。肉体の生命感というものを、私たちは気にかけなかったり、傲慢にも感謝どころか恥と感じたりするものですが、この本では聖なる愛を通して肉体が復活を遂げているのです。マーガレットは、私たちの純真を無花果の葉で覆い隠す代わりに、身体にかわって言葉を紡いでいます。私たちの愛を隠す必要もなければ、見せかけの犠牲を通して忠実を証明する必要もないのです。人生と愛は、互いに犠牲となっています。それはまるで身体が語っているかのようです:「神を知りたいのなら、私の中に入りなさい。あまりに長い間、あなたは見当違いのところで探し続けてきたのだ。自分の感覚での経験をあまりに長い間鈍感にしてしまっていたのだ。自分の身体での経験を恐れることはない。つまり、身体を楽しみ共有することで神が罰を与えると恐れることはないのだ。」マーガレットの素晴らしい貢献を再考し、あなたとともに彼女のプレゼンシングの一部を共有できるのは、大変光栄なことです。

祝福を込めて、

ジャック ブラックバーン

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