Presencing Issue 17 ボディワーカーにとっての特異な役割:私のヴィジョン- 中核にあるプレゼンシング

「朝は4本脚、昼は二本脚、夜には3本脚、そして弱くなるほど
もっと脚が増える動物は何か」
スフィンクスの謎かけ

Issue 17 image 1もしもこれから私が申し上げることが、あなたのボディワークについてのお考えを攻撃しているように感じられるとしたら、どうかお許し下さい。なぜなのかはうまく説明できないのですが、この職業がこうなったなら、と思うことについて、私はより具体的なヴィジョンを持ち始めるようになりました。1986年にボディワーカーになってから、私はボディワークをヒーリング・癒しの職業と考えてきました。しかし、私にとってのヒーリングの意味というのは以下のことも含みます。スフィンクスの謎かけのように、誰の肉体も病気になるもので、年齢と共に衰え、そして誰しもの肉体が死ぬものなのです。ですからヒーリング・癒しというのは大いなる謎のように思えるのです。

ヒーリング(癒し)という言葉は、“hale”という語から派生しています。この語には、全体とIssue 17 image 2健やかさという二つの意味があります。人が人生と良い関係性にあれば、その人は健やかだと言えるでしょう。肉体的、感情的、精神的、そしてスピリチュアルにも、“whole” (全体、完全な、全人的な)という言葉も同じように用いることができ、人生と完全な関係性にある人を意味します。私にとって、病気というのは、人がある意味において人生と分離しているように思えるものです。通常私たちが病気として言及するものを考えてみると、いずれも人生との完全なる関係性から何らかの意味で引き下がることだといえるでしょう。それは肉体的に、感情的に、精神的に、スピリチュアルに、いずれの面であっても言えます。その意味において、病気はあらゆる形態の分離、つまり不信感、疎外感、偏見、判断、そしてその他のあらゆる分断を含むものなのでしょう。

Issue 17 image 3ケアを与える職業は全て、病気の人が、人生との関係性を部分的にあるいは全て回復できるよう援助をするものです。もしも、病気が何らかの分離の状態と見なすのであれば、全ての人類は病気で苦しんでいると言えます。そして、全ての病気は、分離への思い込みから派生しているか、あるいはその思い込みがより悪くなっているかなのです。これは私が初めて言っていることではありません。慢性的な病の基本的な原因というのは、私たちが、お互いに分離の態度を持続しているところにある、ということです。1968年の雑誌『ニューヨーカー』は、仔犬たちが組んず解れつの様子を、人々が微笑んで見ています。ですが、その人たちはお互いには微笑み合ってはいません。癒し・ヒーリングの根本的な機能は、人間が互いの人生から引きこもっているのを反転させるということなのです。

幼少時の(親との)きずなを断ち切ることと個人主義の始まりともに分離の行為は始まります。殆どの発展した文化において、そうした時期には触れること・タッチを制限するようにな
ります。その制限には触れる・タッチをやめることも含まれますが、それによって他のコミュニケイション形態が不安全になり、制限が必要になるのです。触れることが子供にとって混乱を来すものとなり、特にホルモンに変化が出る思春期の子供達には特にそうなっていきます。そうした混乱は、私たちが肉体的により成熟するにつれ、さらに混乱を来すものになります。

しかし、動物やあまり区別をしない文化を見てみると、触れることはそのまま継続して行き、Issue 17 image 4健やかな生活において大変重要な部分を占めるものになります。思うに、殆どのボディワーカーが触れること・タッチが健やかさに必要だと同意するでしょうが、先進世界においては、私たちボディワーカーの方が少数派になるのでしょう。私はこう信じています。全てのケアを与える職業、つまりボディワーカー・手技療法者は、殆どの病の形態が横たわる分離という誤てる感覚を終える、という最も重要な役割を担っているのだ、と。そうした方法において、個々人の癒しと、おそらくは人類全体としての癒しへと向かっていくことに、私たちが多大なる影響をもたらせるのです。

 

 

Issue 17 image 5もしも、人生の全ての段階において身体に働きかけることによって、ボディワーカーが癒し・ヒーリングの謎かけを解くことができるなら、きっと私たちは集合的な種としての再統合と目覚めに大きな役割を果たすことになるでしょう。アコースインミラクルズ(ACIM、『奇跡講座』)や、ヴェーダのような古代のスピリチュアルな文献は、人類は眠りに落ちて、分離という夢を見ていると明言しています。私たちのマインドは過去の記憶に埋没しており、それも夢の状態の一部である過去にはまり込んでいるのです。過去中心の夢の状態では、私たちは過去の経験をもとにしたものの受け取り方に固執します。過去は存在しないのですが、私たちは今ここで起こっていることよりも、過去にずっと多くの注意を払うのです。過去への埋没が、人生との完全なる関係性を不可能にしてしまうのです。

今という瞬間になることが、癒し・ヒーリングの謎かけを解決してくれる、そう私は信じています。

ACIMは、私たちは過去に固執するために記憶を用いると言います;しかし、真の記憶の用いIssue 17 image 6方というのは、を思い出すためのものだというのです!私たちは、身体の中でその瞬間を感じて「今」を思い出します。従って、クライエントに(ソマティクス的に気づくようになって)身体を自分の一部として取り戻す・思い出すことを教え、夢と分離という病から目覚めるための道具を私たちが手渡してあげるようになるのです。

今身体で起きている信号に注意を向けたときに何が起こりうるのか、一つ例を挙げてみましょう。

Issue 17 image 7感情的な変化:今この瞬間に、あなたが内側で感じる感情に気づいてみて下さい。その感情には感情名をつけられるかもしれません。恐れている、怒っている、悲しい、など。その感情やそれがどこからきているのかを理解しようとする代わりに、ただ単にその感情の肉体的な影響を感じましょう。もしかすると、その感情に伴う何らかの強張りや、燃えるような感じ、あるいは弱々しい感じや無感覚さを感じるかもしれません。その感情の部位を特定し、その感情の肉体的な特質を言葉にしてみましょう。強度、形、リズムなど。こうしつつ、イメージや記憶、名前など何かが表面化してくるか気づいてみます。そしてあなたが感じていることに対してそれが妥当なものかどうかを試してみましょう。あなたの身体はあなたに情報を伝え(inform)、あなたを再形成している(re-form)のです。物事が上がってくる間、この過程とともに居続けてください。あなたの身体が、感情の中へと旅に連れていってくれるのが分かるでしょう。そして、感情と感じている状態に変化が出ているのに気づくでしょう。このエクササイズは、フォーカシングと呼ばれる、ユジーン ジェンドリンのカウンセリングの過程から派生したものです。

身体は今にしか存在しません。肉体の全ての信号は今であり、肉体全ての機能も今起こっており、今必要なものを肉体は取り入れ、今必要なものを吸収し、今必要でないものを手放します。そして身体は、それらの生命システム全てとの接触を保つための全体的な相互的信号システムを備えているのです。そうした現象の何らかひとつに随伴することができたなら、私たちはプレゼンスへの入り口を開き、過去への埋没から目を覚ますことが可能になります。身体の全てが、今ただそのままに存在する生命とひとつなのです。私たちのマインド・精神も同じように居続けられるものでしょうか。

痛みの変化:今の瞬間にある身体についていくことの次の例は、痛みについてです。内側にIssue 17 image 8.jpg入ってみて下さい。あなたの身体で経験している痛みを見つけてください。痛みの位置を特定し、痛みの形と質を感じましょう。鋭い痛みで円錐形をしているかもしれません。痛みが最も強いところ、その鋭さに気づきましょう。その鋭さに伴う質にも気づいてみます。温度、色、刺激、継続性などです。その痛みと、あなたが相互的に作用してみたらどうなるでしょうか。痛みへと呼吸を吸い込む、痛みを(呼吸で)膨らます、あなたの身体の内側から痛みに触れてみる、言葉で表現する、痛みの内側を感じてみる、外側を感じる、指でその部位のあたりに接触してとんとんと軽く叩いてみる(ソナーのように)、そして、どれくらい深いところでそのリズムを感じられるでしょうか。そうしたやり取りを実践する間に、不快感には何が起こっているでしょう。こうしたやり方で痛みがプレゼンスされる時、あなたは自分の身体とこれまでとは異なる関係性を築いていることが分かるはずです。あなたは、痛みそのものをプレゼンシングのための道具として用いることにより、あなたの痛みとの過去の関連性を解放しているのです。

もしもボディワーカーとして、私たち自身の生命感ある肉体の信号に付き添ったなら、クライエントにも同じような焦点の当て方と注意の向け方をしてあげられます。身体を中心とした認知的な意識を実践すればするほど、私たちのプレゼンスの能力はどんどん育っていきます。それぞれの人の目覚めの潜在性を感じ始めるようになります。それは、私たちが自分たち自身を分離しているという夢からの目覚めなのです。私たちの環境が新鮮で新しいものになります。人間関係はもっとオープンになり、愛溢れるものになります。そして人生への感謝で心が満たされます。私の経験では、全てのヒーリング・癒しの形態というのは、生命への参画と分離の思考と表現を終えることを含むものだと思えるのです。

こういう訳で、意図的に自分の内なる感覚を発展させ、いつであっても人生を学ぶ人となっていくヒーラー・プラクティショナが私の視野に入ってきます。そうした人々が、ヒーリングの生ける表現者となり、自ら選択・実践をする目覚めの行為者となるのです。全てのボディワーク形態がこの方法を用いることができます。なぜなら、ボディワークはタッチを含み、クライエントがソマティクス的に気づいている状態になれるよう手伝えるものだからです。ソマティクス的な認知意識を持つことで、プレゼンス=今の瞬間にあることが楽になってくるとわかるようになります。ソマティクス的に気づいた状態になることで、私たちは過去をゆるす(忘れる)状態へと到達できるようになります。過去を忘れることで、私たちの内にある永遠の存在とより親交を持つようになります。そのようにして、私たちの身体は、重荷を担ぐものからプレゼンスで家へと還るものへと変容できるのです。この目覚めは、分離の終焉です。生きとし生けるものは全て、私たちを永遠の存在へともたらしてくれる協力者なのです。その意味において、私たちは皆放蕩息子であり、家に暖かく迎えられようとしているところにいるのでしょう。
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Presencing Newsletter Issue 16 仮面を外す:閉じた顔-開いた顔

Presencing Newsletter Issue 16
仮面を外す:閉じた顔-開いた顔

米国の偉大なる大統領エイブラハム リンカーンは、かつてこう言いました。中年期に差し掛かIssue 16 image 1ると、私たちの顔は開くか閉じるかになる、と。彼が気づいたのは、開いた顔を持つ人々は人生を大切にしているということでした。そうした人々は、様々な表情が可能です:愛、悲しみ、好奇心、敏感さ、そして思いやりなどです。

人生に不信感を抱く人々は、閉じた顔を持つことになります。閉じた顔というのは、表現が難しい顔と言えるでしょう。顔の筋肉が、慢性的な人生の状態に適応してしまっているのです。恐らくその人は、痛み、恐れ、怒り、不信感をたくさん抱えているのでしょう。怪我をして石膏のギプスをして固めるように、閉じた顔は感情的に防衛的になり得ます。開いた顔は表現力があり、映し返しができます。閉じた顔はしばしば、閉じこもり、防御的です。

Issue 16 image 2閉じた顔がその緊張状態を変えるには、何百という筋肉を使うことになり、それによってこれまでにない表情が可能になるのです。この閉じた顔は、フェイスリフトを受けた場合にも起こり得ます。若く見せるため、皺のある皮膚が選択的に強張らせられる…その結果、表情が制限されます。

ボトックス治療は、強張りが強すぎる筋肉をリラックスさせます。しかし、クライエントが自分で抑制された筋肉を活性させるのは困難となる可能性があります。これらの「若さの仮面」もまた、表現力を発揮することはあまりできません。ボディワーカーやエステティシャンは、こうして通常の組織反応を人工的に制御しているのを(手で)感じ取れます。私の経験では、人間のタッチとクライエントの感覚的な認知意識を用いることで、通常の休息状態での筋緊張にある自然な美しさと、開いた表現力の手助けができます。

顔は鏡です。開いた顔は、鏡として他の人たちを映し返してあげられる能力があります。このIssue 16 image 3鏡となることは、真の美しさの源泉です。エステティシャンの顔が「若さの仮面」という閉じた顔であるよりも、クライエントのための表現力ある鏡であることは重要です。自分の顔という鏡を磨き、防衛的な仮面の下に隠されているその人を精確に映し出してあげる必要があるのです。閉じた顔が恐れと痛みを表現し、その人の苦しみに思いやりを感じるとき、私たちの映し返しが防衛的な仮面を緩めるのに役立てるからです。

また、人が内側から顔の組織を的確に感じられるよう手助けをしたなら、その人は仮面が溶けて行くのを感じることになるでしょう。(そのために)働きかけることができる特定の筋肉群があります。最初の、そして最も重要な筋肉は、噛んだり噛み砕いたりするための筋肉です。中国の易の八掛に、「噛み貫く」というのがありますが、それは意志の力で大きな問題と取り組むという意味です。

閉じた顔の人は、人生の問題を噛み締めています。きっとその人は軽視されていると感じているのでしょう。もしかすると、自分が歳をとって魅力がないと感じているのかもしれません。あるいはたくさんの心配事を抱えているのかもしれません。感情を制御し、自分の行為を制限して噛み締めている人がいたら、他の顔の筋肉に強く影響を与えている、噛むための筋肉群を緩ませてあげることができます。

それでは、噛むための主な筋肉群にクライエントの自覚的な意識をもたらしていきましょう:Issue 16 image 4.jpgまず咬筋、翼突筋、そして側頭筋です。それから、首の特定の筋肉:舌下筋群、胸鎖乳突筋、射角筋群です。これらの筋群がリラックスすると、エステティシャンもボディワーカーも、施術がどれだけうまくいったかはその人の顔を見ればわかるでしょう。クライエントの自覚的な意識を用いると、これらの筋肉群は傷みや機械的な圧力、侵襲性のある注射などを用いずともリラックスできるのです。すると、クライエントは防衛的な仮面をという重荷を解放することになるでしょう。
セラピストの力を借りたりスキンケアのための準備をしたりする前に、これらの主な筋群の痛みや無感覚を解放するのは重要なことです。言葉と表情を用いて、私たちが仮面の下のその人をただ映し返してあげると、開いた表情と美しさを感じることに意識的になります。これは、身体の内側でとても良い感覚を生み出し、クライエントをリラックスさせ、筋肉と関節に感覚的な影響を創り出します。この主要な筋肉への働きかけをした後は、他の顔の筋肉は通常楽になります。

また、顎関節にもクライエントの認知的な意識をもたらす必要があります。この関節はしばしIssue 16 image 5ば、噛む筋肉の上で閂(かんぬき)のように固まってしまっていることがあります。ここに意識を持って行くことで、顔のみならず上半身にもリラックスした感覚が生まれます。そのため、上半身を通してさらに表現の自由を得られた感覚がするのです:それは腕、首、顔、肩、それから声にまでそうした感覚が生まれます。

年齢を重ねた人たちは、こうしたエステティクスのようなアプローチに大変よく反応します。高齢者は内側で美しさを感じ、それを外に表現したいと感じています。そうした方々に、どうかこの機会を与えてあげて下さい。その人たちが着けている重い仮面を手放す手助けをするだけには留まりません。その人たちは、人生により多くの感謝の念を覚えることに気づいていけるようになるでしょう。

「目の前にある美、後ろにある美、私の周りは美しさばかり…美しさの中に入らせて…私が最期の歌を歌うとき、ただ美を美しくあるままにさせておくれ。」
〜ネイティヴ アメリカンの祈り
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ボディワークと瞑想 Presencing Issue #15

ボディワークと瞑想 – 心を開く

Issue 15 image 1共感の成長に適した職業ケアに携わる職業全ての中でも、ボディワークはクライエントの現実に最も近しくさせてくれるものです。責任という感覚をより強く抱くプラクティショナは、クライエントのある程度の苦痛を心で共感していることに気づきます。ボディワークのトレーニングコースや教科書は、治療に焦点を当てているため、そうした反応は横に追いやられたものになっています。そして(そうした側面を示すものとしては)逆転移のための解決法のみを示しています。つまり「あなたはクライエントからそれをもらっている;自分を守らなければならない;あなたが投影しているのだ;自分自身のために精神・心理療法を受ける必要がある」といった感じです。しかしながら、共有される苦痛という感覚は、心を開くことと共感の始まりともなり得ます。もしプラクティショナが、身体中心の瞑想やプレゼンシングのような何らかの内面の修練をして、自分の条件付けされた苦しみに取り組むことができたなら、苦しみを変質させられるでしょう。そしてそのことを通して他の人たちの苦しみを真に心で感じる共感をし始めるようになるでしょう。共感を能動的に実践する中で、私たちは相手の苦しみを背負うよりもむしろ、相手と結びつくことによって互いを変質させるのです。

苦しみを知る– 個人的な苦しみを他者のための思いやりへと変容させる:身体中心の瞑想を個々人が実践する中で、私たちはそれまでの苦しみの様々な出来事を経験します。私たちのエゴ(自我)がトレーニングしてきたマインドが、古い記憶、後悔、恐れ、恥、罪悪感と憤りが詰まった押入れになっていることに気づき始めるのです。私たちは、思考と感情と自分を同一Issue 15 image 2視しているので、そうした苦しみに継続的に左右され続けています。プレゼンシングを実践していくにつれ、思考と過去に条件付けされた感情との違いを識別し始めます。つまり、そうした感覚的な気づき・認知的な意識が瞬間的に現れるようになるのです。プレゼンシングを日常的に実践すると、精神的な考え込みから、心が中心になった感覚へと変化するのを感じるようになっていきます。私たちの感情が、自己中心的な出来事から利他主義の抱擁へと変容します。自分の苦しみを変容させることは、他の人々の苦しみを分かち合い、変容させることへの準備を整えるものになるのです。
仕事の時間が瞑想の時間になりうる– プレゼンスの共有日常的に身体中心の瞑想の実践を学Issue 15 image 3ぶと、自分自身を内側から外側へと変容させるようになります。自らの変容が進むうち、私たちの仕事がその変容の表現となっていきます。クライエントの身体に働きかける時、私たちは自分の手を通し、言葉を通し、共感を通して自分のプレゼンス(今・この瞬間)化された気づきを伝えることになるのです。私たちは、クェーカー派教義の意味で言う、「集う」空間を創っているのです:「私の名において二人あるいはそれ以上が集うところ、そこに私(内なるキリスト)はいる」。私たちは変容の潜在性を分かち合っているのです。私たちは、永遠の瞬間というプレゼンス(今の瞬間の存在)を分かち合っているのです。プレゼンスの兆しと贈り物が、セッションの環境の一部をなすようになり、神聖な空間を生み出します。私たちとクライエントがヒーリング・癒しの相互的な経験へと入って行くにつれ、この経験によって互いが利益を得ることになります。

直す・治すという態度:私たちを訪ねてくるクライエントの多くは、痛みやストレスからの何らかの軽減を求めてやって来ます。私たちは、クライエントのいつも通りの日常生活のための休憩所なのです。もし私たちのセッションもいつも通りになったなら、私たちのアプローチはほとんどが思考中心になり、条件付けされたマインドと呼ばれるものから作業することになります。数多くのボディワークの教科書やトレーニングは型を教えるもので、多岐にわたるクライエントの症状のための「直す・治す」お決まりの手順が示されています。救急医療のための規則よろしく、そうしたアプローチ法は、ボディワーカーは主に症状緩和に焦点を当てるよう勧めています。多くのクライエントは、純粋にそうした治療形態に興味を抱いています。それらの思考中心のアプローチは、解決されるべき問題を提示する目的物として肉体を見ています。また、通常クライエントも同じように考えています。そのため、肉体にある問題を直すことが主な目標となります。この目標が、二人の人間にある事前に条件付けされた態度からやって来ていることに気づいて下さい。つまり、肉体を直す・治すことがクライエントを直す・治すことと同等になっているのです。

無理矢理にでも心・ハートを開く:以下は、心を中心にした気づきについてのスピリチュアルな教えの例三つを示しています。心を開くために痛みをもって肉体に罰を与えることと、ボディワークで症状を直す・治すという態度が似通っていることに気づいてみましょう。エゴ(自我)のマインド中心の意識から、ハート中心の気づいた意識へと動いていくに従い、エゴは絶望的に思考と感情にしがみつきます。エゴは、過去の記憶と未来についての予感とで守られた、条件付けされたマインドの中心を占めています。自分の中に恐れと苦しみがあるなら、そこにはエゴが投資をしているだのと分かるのです。エゴを超えていく古来の方法は、多大な肉体的精神的苦しみを含むものでした。罪のあがないと肉体の浄化としての禁欲と処罰を求めるものだったのです。

シナイの聖グレゴリ(1265-1346AD):「…知性を屈服させ、頭から心・ハートへと送りなさIssue 15 image 4.jpgい。そしてそこに保ちなさい。頭は力尽くで下を向かせ、胸、肩、首は激しい痛みに苛まれる…神の王国は強制的に入らせられたのだから、自分にそれを強制する者たちは、その王国を我がものとしなさいなさい。」

道の上の光(作者不明1890年):「心の中の悪の根源を探し、抹消せよ。それは欲望からなる人間の心の中と同様に、忠実な弟子たちの心の中にも奔放に息づいている。強き者のみが悪を完全に殺せる。弱き者はその(悪の)成長、結実、死を待たねばならない。また、その(悪の)植物は何年という時を通して生き、繁殖する。その人が夥しい経験に自分自身を重ね合わせるとき、植物が花を開く。力の道へと入ろうと意図する者は、彼の心のこの(悪の)植物を引き離さねばならない。それから心・ハートは血を流し、その人の人生全体が完全に溶解するように思える。

クリエーションスピリチュアリティ(創造の精神):(マシュー フォックス1990年)「心が砕Issue 15 image 5ける時こそ、憐れみが始まりうる…憐れみはしばしば、心が砕かれたところから生まれるものであり、また完全なる人生を生きる人々は全て心が崩壊したのだ– 魂の暗闇の夜は、私たち皆にとって共通のものである…私たちは、他の人々の苦しみを相互的な自由の過程において背負うのだ。」

 

穏やかな心の開き方:私たち自身が、またはクライエントとともに今の瞬間の身体の経験へと入る実践をする時というのは、エゴ(自我)によって押し付けられている条件付けを取り消すことになります。エゴは、スピリチュアルな変換をそれ自身の評価内容で見ているため、何らかの罰を受けることと、罰を分け与えることを期待します。プレゼンシングのボディワークは、エゴの肉体についての理解を緩め、穏やかにハートを開いていきます。症状のコントロールから、思いやりを持って相手と共にいるところへと動いていくのです。

茶道と田植えの女性:寒い雨模様の日 – 車は、急坂の山峡の数多くのうねり道を進んで行きまIssue 15 image 6.jpgす;流れの速いせせらぎ;田んぼと谷間。私たちは茶道のお点前のためにやってきました…日本の優雅さと文化の縮図です。それは16世紀からの武士の茶道のための建物が、今日私たちを迎えてくれる方々の家の一部として建て直されたものでした。茶道の家元である女性は、武士の流派、石州流でお茶を点ててくれました。畳の一角の炭火で沸かされたお湯が鉄瓶に入っています。桃色の着物を着たお弟子さんが、桃色のお菓子を運びます。香り、畳、苦味のある抹茶、熱される鉄…私たちはお菓子とお茶をいただき、友人のスーザンが歌を歌い、それから若い男性が伝統的な禅の笛を吹きました。全てが首尾一貫しています。自然の音、風に吹かれる群葉、菓子、色彩、香り、温かく刺激ある抹茶。

全員の感覚が新鮮なまでに開き、私たちはまた車にぎゅう詰めになって狭く急な山道を登り、Issue 15 image 7お茶に使われる800年の歴史を持つ湧水の地へと向かいます。一方通行の橋を渡るときに、車が停まりました。私たちの少し前に、腰の曲がった高齢の女性が一輪車を押しているのです。彼女は、風を避けるため何重もの衣服をまとい、首巻きのついた帽子を被り、泥だらけの長靴に手袋をはめています。彼女はゆっくりと、大体十歩進むと休みます。礼儀正しく、私たちも動いては休むのを彼女のペースで繰り返します。十回ほど繰り返したところで、私たちは彼女を追い越して山を登り続けました。私は振り返りました。彼女は橋を渡り終えたところで一輪車の上に横になって休んでいました。

車はついに道を離れて駐車し、他の人々は車から飛び出して水源を探しに行きました。通訳のこいとと私は、あの女性を探しに行きました。私たちはなぜか彼女に惹かれたのです。まるで師に会いに行く巡礼のような…彼女と一輪車へと、胸の痛みによって惹きつけられるように。Issue 15 image 8.jpg彼女の方へ降りて行きながら、おそらく彼女が80歳を越えていることが分かりました。それは、彼女がもし車に向かって歩いていたとしたらはっきり見て取れたでしょう。こいとは丁寧に、私が写真をとっても差し支えないかどうかを訊いてくれました。お願いしたことには喜んでいる様子で、笑いながら着ているものを整えました。私が、顔に少し泥がついていますよ、と言うと、彼女は帽子と首巻きを取り、顔を拭って二枚目の写真のために笑顔を見せてくれました。彼女がこいとに話したのは、田んぼで作業をしていたものの、山がもう影を作り始めてしまったということでした。「もう寒くて風が強くて。今日はもうやりたくないね。」

私たちは丘の上にいる友人たちのところに戻り、彼女は家路へと着きました。冷たい湧き水を飲み、少しばかり歴史を聞いて、そして車に戻りました。下に降りて行ったとき、太陽に照らされるあの女性の姿が少しの間だけ見えました。さっきよりも急な坂道を少しだけ上がったとIssue 15 image 9ころにいました…十歩進んで、休んで。彼女の腰はあまりに折れ曲がっているので、辛うじて一輪車よりも少しだけ背が高い程度になっています。私はまた胸に強い痛みを覚え、彼女の大変な労働と苦しみの日々の営みを変えてあげたいと思いました…彼女がどれだけ尊く、いかに人間の魂の尊さを代弁しているかに気づいたのです!私の胸の痛みは暖かさへと変わり、感謝と満ち足りた感覚が生まれました。私は、慈悲心の花がいっぱいに開くのを感じました…茶道の優雅さとこの女性の尊さによって開いたのです。

ハートを開き、真のこころへと変化させる:私たちの仕事は、自然に心・ハートを開くところへと誘って行くものです…日本語で(真の意味で)「こころ」と呼ぶものは、私たちの気づいている意識の中心が志向のマインドから感じる心へと動いたことを意味します。この動きの主な証拠は、共感の感情が育つことです。共感は(英語では)字義通り、苦しみが共感されるという意味です。ある意味においては、私たちは他の人々の痛みを自分の胸で感じられるということなのです…他の人の人生経験を感じられるのです…他の人の苦しみの人生が、花を開く人生になる潜在性を感じられるのです。プレゼンスの状態になるときに私たちの心で起こるのは、他の人々の苦しみを穏やかに包み込み、私たちが進んでその人たちと一つになろうという気持ちを通してヒーリングへと入って行くことなのです。このひとつとなることは、私たちもクライエントも傷つけるものにはなり得ないのです。

タッチのユニークな側面 – パートIII

タッチのユニークな側面 – パートIII                            by Jack Blackburn

2010年の5月末、横浜にて、私はあるセミナーを行いました:「タッチのパワー」というボディワーカー、カウンセラー、エステティシャン、他の種類のケアに携わる人たち、そして一般向けのものでした。目的は、タッチの様々な側面、多様な身体の状態、色々な精神状態を示す他、タッチ・スキンシップの欠如の問題、そしてタッチがなぜ私たちの生活で重要なものかを伝えるためのものでした。私は職業的ボディワーカー、ヒーラー、講師、カウンセラーとして長年働いており、どの仕事においてもその人の認知意識・気づきと生活の質にタッチがどれだけ影響を与えるかに焦点が当てられています。以下は、一つ目と二つ目の記事の続きになります。私のほぼ三十年に亘る経験から、タッチのユニークな面についての考察を続けて行きましょう。これはシリーズの三番目にあたりますが、タッチで繋がる私の同僚の皆さん、友人たちに向けたものでもあります。

症状は身体の注意喚起の方法

私たちの肉体は、眠っている時でさえ継続的に私たちにコミュケーションをしています。夢はIssue 14 image 1肉体的な刺激感覚に伴われており、そのために現実的に思えるのです。映画や演劇を観たり音楽を聴いたりする時、肉体は継続的に情報のフィードバックをくれるので、それが経験を記憶に残るものにするのです。そうした出来事を思い出すだけでも、身体から感覚が呼び起こされます。症状は概して、変化を求める肉体的な信号です。恐らく身体は、位置を変えたり、何かを食べたり、体を掻く、鼻をかむといった行動を喚起するに十分なだけの不快感を生み出しているのでしょう。それらの症状は、私たちが反応できないことにならない限り、概して無害なものです。もし反応できないと、症状が本当の苦しみを引き起こす可能性が出てきます。

私たちの習慣としては、和らげることができない症状は取り去ろうとします。そうした症状を感じるままにはしておきたくないので、なんらかの緩和を求め続けるのです。

肉体にある刺激感覚に付き添うことでプレゼンス(今の瞬間)になり、意識的に目覚めていく

肉体にあらわれる感覚/刺激にさらに追随することにより、私たちの身体の内側で何かが変化Issue 14 image 2し始めます。私たちはプレゼンスを経験し始めるのです。つまり、永遠なる認知意識という状態で顕現する一瞬一瞬を経験し始めるのです。全て、過去も現在も、この永遠なる瞬間の一部なのです。このという気づきが育つと、数多くのこと、特に恐れていることを異なる観点へと持って行ってくれるようです。

私たちの慢性的な問題は、を避けるために自ら作り出した手段であることに気づき始めます。この永遠なる瞬間においては、連続性しかありません。断絶はないのです。肉体が、目覚めの旅の乗り物となるのです。肉体は、私たちがというデータを集める必要性がある限りにおいて存在してくれる、一時的なものです。よく注意を払ってみると、肉体はにしか存在しないと分かります。そのようにして、束の間の暗在性が永遠の明示性へと導いてくれるのです。

症状を消し去る時– 身体のメッセージを消し去る
Issue 14 image 3エステティクスも含め、数多くのタッチの手技があります。私たちが欲さない症状を長時間にわたって楽にする、あるいは消し去りさえするものもあります。例えば、クライエントにとって恥ずかしく感じている目の痙攣を、エステティシャンがなくすことができるかもしれません。ボディワークにおける大きな利点の多くは、疲れあるいは時に痛みといった副作用を生み出さないことです。

ソマティクスの実践者は、また別の疑問を呈します。そこにある症状は、単に肉体的病理を示しているのか、それとも私たちの内なる過程へとより深く入らせてくれるものなのだろうか、と。神経の痙攣は、もしかすると心配や疑念があるがために起こっているのかもしれません。

ソマティクス的な認知意識(身体を内側から意識的に感じること)に随行していくなら、私たちが、新たな洞察、自分たちについての理解、そして、私たちがいかに人生を導いているのかといったことにオープンになれるのが分かります。恐らく、不快感を覚える症状のための手早い解決法を求めていくことは、全身全霊で人生に参与する機会を逃すものになるのかもしれません。

症状についていくことで、マインドはよりオープンに、認知的になるある種の瞑想、ボディワーク、心理・精神療法では、肉体の内側に入り、症状に随伴することを学びます。そして何が明らかになるのかをみていくのです。忍耐強く、そうした感覚的メッセージとともに居続けて、そこに症状がある理由にすぐさま答えを探そうとしないようにするのです。エステティシャンの場合は、その神経の痙攣がある部位に軽く触れたり穏やかなタッピングを施したりするかもしれません。経験を積んだソマティクスの実践者は、感覚の領域に入っていけるよう相手に付き添い、二人が共に進んでいく、内なる旅路の方向を与えてくれる症状について学ぶことになるかもしれません。そうしていくことで、私たちが全体性と自己完結へと進んでいくようになると信じる人々もいます。

Issue 14 image 4道しるべこうして、症状が意味することへの評価を変えていくことになるのです。馴染みのない土地の自然の中でハイキングをしたことがある人は誰しも、道しるべの価値を理解しています。神経の痙攣を取り除く代わりにそれを探っていくことで、エステティシャンはクライエントのための洞察へと導かれるようになるのです。よくあることですが、症状は洞察がやってくる時に消え去ります。道しるべの価値を知らない人々は、しばしばそれらを消したり壊したりするものです。私たちが道から外れないようにしてくれる目印の価値を理解していないからです。また私たちは、それと同じことを自分に、また人に対しても人生の中で幾度となくしてきています。私たちの症状に対する態度の枠組みを再構築することに認識が行くと、相手の人たちひとりひとりの自己発見の旅の同伴者になることが容易くなるのです。

Issue 14 image 5症状が直接無意識へと連れていってくれる可能性:身体から生まれる感覚や刺激によく注意を払うことを学ぶ時、症状のある部位には初めに認識したよりも実際多様な感覚刺激があると気づきます。事実、症状と長く居続けるほどに、感情的な内容、過去の記憶と恐れ、ヴィジョン、夢等々との繋がりを感じ始めるのです。神経の痙攣に取り組んでいたエステティシャンなら、クライエントの目の端に涙が浮かび、身体には不随意的な震えが起こっている事に気づくかもしれません。

症状に伴う感覚刺激が、過去からの多種多様な解決されていない問題へと入って行く通路となるのかもしれません。感覚刺激とともに居続ける事で、そうした過去の経験や未来の恐れを映画のように見えるかもしれません。その過程とともにあると、無意識の内容があらわれ続けるようです…まるでその中にある何かがこの動きを推進しているように。恐れやその他のことでいっぱいになっていた症状が、どんどん減って行くようです。時に、この過程は純粋なプレゼンスの経験を導き、そこで全ての思考と感情がいつの間にかなくなります。このまさに歓びに溢れるプレゼンスの経験は、瞑想家が悟りと呼ぶものなのです。

プレゼンスになると、私たちの外側と内側の現実が変化する

プレゼンスの経験は、身体を通してのみ起こり得るものかもしれません。なぜなら、それは感覚される経験だからです。思考は、それ自体ではプレゼンスを生み出すことはできません。デカルトのような数多くの優れた思想家は、長年に亘って肉体から自らを切り離そうと努力しました。それで純粋な思考から生まれる宇宙を構築しようと試みたのです。

Issue 14 image 6現代の物理学や脳の研究の時代においては今や、身体、肉体のみが、全ての創造性と直に繋がる内なる叡智を感じ取れる感覚機能を備えたものであることが理解されています。ということは、私たちの人生経験は、内側から現れる叡智をより反映するものになって行くのです。圧倒的な畏怖をもって、私たちは、創造と永遠の生成における参画者としての自分の役割を認識し始めるのです。

 

プレゼンスの状態になる時、自らの生命感覚(生命力)を感じる

永遠なる瞬間で生きることの副産物の一つは、自分自身と他の人たちの生命感覚にさらに、より多く気づけるようになるということです。この生命感覚は、私たちが身体の内側で感覚する間、永遠に展開しています。そして、生命感覚は決して去ることはないという気づきとともに、その感覚がやってきます。つまり、創造の生命感と相互作用している感覚を感じ始められるのです。このやりとりは、私たちに継続性の保証を与えてくれるものです。そして、何度も何度も再生産される肉体が、その証拠を与えてくれます。またそれは変化し続ける展開からなる静寂へ、内へと引き寄せてくれるのです。永遠にこの瞬間であるへと。

クライエントとプラクティショナがソマティクス的に相互作用する時– 両者が変容する

Issue 14 image 7タッチの分かち合い、認知意識の共有、今を分かち合うことは、クライエントとプラクティショナ両者を目覚めの状態へともたらします。セラピーは、創造主ではなく私たちが作り上げた問題に働きかけるということではもはやなくなります。今それは、分かち合われる目覚めの旅路となったのです。プレゼンスの分かち合いがさらに急激に、より多くのプレゼンスを生み出します。両者がこのやり取りで変化を遂げ、そして二人ともが、一人では決して起ることのないヒーリングへと向かっていくのです。この分かち合いは、真の変容となる経験を生み出します。私たちは自らを分離し、孤独を分かち合おうと分離された他人を求めながら生きて来ています。今や、防衛する仲間も、分離を介した安全性も、作り出す必要はもはやないのです。

 

 

Presencing Issue #13-b スーパーヴィジョンに向けて:スーパーヴィジョンの道

PresencingIssue 13 b- スーパーヴィジョンに向けて:スーパーヴィジョンの道  
(c) 2010 Jack Blackburn

Issue 13b image 1_Supervision

 

 

 我-爾(われ-なんじ)の関係性においては、人類は存在の統一性をもつものと違いを認めるも
のとなる。
-爾の関係性で人類は、互いを特質からなるもの、あるいは孤立した質からなるものとも知覚しないが、互いの全一なる存在を含む対話の中で引き付け合うものとなる。一方、我-それの関係性においては、人類は違いを特定のものの集まりとみなし、独立する質とし、物から成る世界の一部として自分たちを眺める-爾は相互的かつ互恵的であり、いっぽうの我-それは分離と断絶の関係性である。
マルティン ブーバー Martin Buber 
explained ~angelfire.com

私のプレゼンシング ニューズレターでは、数多くの号でボディワーカー、クライエント、そして共同体に影響する多くの論点を取り扱ってきています。クライエントが意識的な感覚への気づきを育てる手助けをするという目的をもって、クライエントの身体から直に派生する問題も扱ってきました。こうした記事を書くことも、これまでのクラスをお教えすることも、その時々に私が受けてきた様々な形でのスーパーヴィジョンなしではまず不可能であることをここで認めましょう。

Issue 13b image 2_Counsellingここで少し背景をお話ししましょう。詳しくは私のウェブサイトでご覧になれます。(米国サイト)大学院に入ると、様々な形でのスーパーヴィジョンが要求されることになると言われ、私はぎょっとしました!13aで引用したボディワーカーの方のように、企業主義のアメリカには決して戻るまいと決意していたのですから。つまり、誰かに何をすべきかを言われるようなことはもうごめんだと思っていたのです。

そこで分かったのは、大学院で求められたスーパーヴィジョンは私が思ったものとは全く異なるものであるということでした。一緒に取り組んでくれたスーパーヴァイザーたちは、クライエントとの仕事で直面するジレンマの多くを手助けしてくれ、自分の目標を自分で打ちたてて到達できるよう挑戦を与えてくれ、初めて自分のインナーライフ(内面の生活)を分かち合う経験を始める手助けをしてくれ、幼少時の問題の多くに取り組んでいけるようにもしてくれ、さらに身体-中心、クライエント中心、という私の実践、スピリチュアル ディレクション(精神性の方向性を手助けすること)とボディワークの定義付けを手助けしてくれたのです。つまり、彼らは私が自分自身を知ることを手助けしてくれたのです。

16年たっても、私はそうした分かち合いからまだ引き出せることがあり、そのひとつとしては、同じスーパーヴァイザーとまだセッションをして取り組んでいます。疑問の余地なく、そうしたセッションが私の人生を全く変えたと言えます。私は、とにかく可能な限りそれぞれのスーパーヴァイザーに支えてもらい、自分でできると思っていたよりも遥かに超えた到達をすることになったのです。

職業的ボディワーカーは今、スーパーヴィジョンが必須となる未来に直面しています。適切な監督・監査ないまま、ボディワーカーがトレーニングよりも深いところへと入っていき、「実践の範囲」を超えて進んでいくのはどうかと懸念するマッサージ評議員もいるかもしれません。ボディワーク共同体の中には、スーパーヴィジョンをする真の理由というのは、スーパーヴァイザー(監督・監査役)がなんらかのアドヴァイスや導きをもたらし得るという考えから賛成をする人もいるかもしれません。これらのようなスーパーヴィジョンに協力的な見解には、スーパーヴィジョンがプラクティショナにとって魅力的な働きがあり、彼らの成長を力づけるものでなくてはならないという点が見落とされています。

Issue 13b image3_Black_Butterfly

私の倫理のクラスでは、仲間同士でのスーパーヴィジョンの概念の導入をしてきています。そうすればプラクティショナは、自分の実践の中での倫理的なジレンマ(板挟み)やその他の職業的な懸念について話し合うための仲間同士のグループを形成できるからです。仲間同士でのスーパーヴィジョンの中核となるプロセスは、偏見を伴う反応をせずに耳を傾けることであって、アドヴァイスをすることではありません。仲間同士で互いのスーパーヴァイザーとなる、というのは、互いのために互いが存在しあう友人・同業者であり、傾聴をし証人となることを互いに与え合い、支え合うものなのです。
Issue 13b image4_gathering

“存在へと入って耳を傾ける”というのは、スピリチュアル ディレクション(精神性の成長を促すためのカウンセリング)から拝借したフレーズですが、私たちが真に相手に耳を傾けるということであり、また私たち自身が自分自身の内なる真実に耳を傾けられるようになる、という意味です。私がスーパーヴィジョンを教える中では、静寂の傾聴のプロセス、それは肯定や否定を伴う反応をせずに耳を傾けるのですが、その傾聴を通してグループまたは個々人にスーパーヴィジョンのやり方をお教えします。
質問をするといった単純なことでさえも、アドヴァイスをすることや是認または否認などを与える形態をとることになり得ます。ですから、静寂の傾聴を練習するというのが第一ステップとして重要です。静寂の傾聴により、スーパーヴァイザーの訓練者は、自分自身のマインドのお喋りを聞くことにもなります…静寂を実践するまでは。それはメタ思考と呼ばれるものです。私たちが他の人々ではなく、いかに自分にばかり耳を貸しているかに気づかぬままでいるのが分かります。静寂の傾聴、無思考の状態であるプレゼンスの兆しの一つに心地よさを感じるようになるまでには、かなりの時間を要する可能性があります。

 

職業として、私たちボディワーカーはお互いにそうした類のサポートを与えあうことができます。私たちの仕事は、おそらく全てのケアを与える職業の中で最も親密なものでしょう。何年にも亘ってクライエントに付き添う間、私たちはクライエントが自分の身体との関係性を変化させていくことを見つめていきます。クライエントの生命力の精密機器である身体を、私たちは肯定的な方法でケアすることに取り組んでいるのです。クライエントとともに十分な時間旅をして行くと、彼らが単に肉体であるよりも、スピリチュアルな存在へと向かって移行していくのを目にすることになるかもしれません。私たちが変化するにつれ、私たちの身体も変化し、私たちがすることも変わります。友人や同僚が自分の証人になってくれるというのは大変大きな助けとなります。そうした変化を自分の中に認識するとき、スーパーヴァイズの関係性というものが、これまでに手にしていた関係性の中で最も深遠なものであることを認識するのようになるのです。
Issue 13b image5_Peer_Supervision

PresencingIssue 12 – 直す・治すことの側面

「人に一匹の魚を与えたなら、その人は1日生きられる。
漁の仕方を教えたなら、一生涯の糧を与えたことになる」作者不明

Issue 12 image 1クライエント自身の癒しにおけるクライエントの役割とは何か  ボディワークにおいて、数多くのクライエントは症状緩和のために私たちを訪ねて来ます。私たちが成功すればクライエントは大変喜んでくれる、それは分かっています。もし成功しなかったら、恐らくそのクライエントに会うことはもうない、それも分かっています。数多くのセッションをしていくと、症状緩和は、真実との一時的な関係性だと理解し始めるようになります。症状は、人の人生の全期間に亘って出て来たりなくなったりします。症状は、心地よい生活に対する病理学的な妨害に向かうものである、そのように私たちは自分を条件付けて考えています。私たちは、症状によって引き起こされる不快感や制限を扱わずに済む方を好むものなのでしょう。

他の要因:ボディワーカーは、クライエントのライフスタイルに症状を悪化させる他のパター
ンがあり、またクライエントは戻ってくると確信し始めるようになります。多分クライエントの生活状況や職業が大変ストレスの多いものなのでしょう。もしかするとクライエントは、自分で制御できない中毒的な慣習があると認めているかもしれません。例えばうつ状態であったり、パニック症候群に苦しんでいる、などです。そうした他の要因に関して、プラクティショナがクライエントを手助けしてあげられることは何かあるのでしょうか。ポジティヴな方法で、症状にじかに影響できることは?クライエントの身体と健康との関係をより豊かにしていくことにクライエントが参加できるよう、プラクティショナができることはないのでしょうか。このより豊かな関係性は、クライエントの身体にある資源に直接繋がり、人生に健やかさと情熱を保てるものとなりうるのでしょうか。

Issue 12 image 2症状への異なる感覚:症状への理解を変えることができたなら、人生を精一杯生きるための新たな入り口を開けるかもしれません。症状を、注意を惹くための呼び声だと見做してはどうでしょうか。症状を取り去ろうと努めるかわりに、クライエントとプラクティショナ両方が症状に注意を向けるのはどうでしょう。呼び声とそれに対する応えのように。クライエントとプラクティショナが、身体の内側と外側から様々な方法で症状とやり取りをしてみたなら、どうなるのでしょうか。プラクティショナとクライエント二人の注意がひとつになり、症状の反応を生み出せるとしたらどうでしょう。症状が反応する間、二人は注意を向け続けることになります。症状によって定められた癒しの道に沿って、二人で歩んでいると気づくことになったら何が起こってくるのでしょう。症状が連れて行ってくれるところへと随行していく方法は様々です。触知、身体に触れる刺激、症状へと入って感じられる感覚、プレゼンシングを通して症状と繋がる、症状の変化に伴い言葉で表現し洞察が与えられ、両者に新たな肉体の気づきが訪れる…など。プラクティショナとクライエントは、多種多様な方法で症状を試してみることができます。そうすれば、どこかに消え去ることなく継続的な情報の流れを生み出せます。それにより、道しるべを見失うことなくヒーリングに向かう道を二人で辿り続けることができるのです。

 

プレゼンシングが差し出してくれるもの:何らかのより深いところにあるものと繋がる目的をIssue 12 image 3持って症状を利用するという可能性は、これまでと違うように人生を生き始めることと同じくらい心を惹きつける何かがあります。つい最近、あるワークショップにいらしたがん患者の方に私は言いました。あなたは幸運なのですよ。あなたの内側に目覚めを生み出しうる継続的な信号を手にしているのですから、と。彼女は二日間、自分の症状をプレゼンシングしていました。二日目に、私は彼女の症状にいかに付き添うかをデモンストレーションしました。私は私の手と言葉を用いて、プレゼンシングで彼女に付き添うことができました。彼女の身体の表面に大変大きな腫瘍がある事実にかかわらず、身体で起こった過程によって彼女は大変前向きになり、真の肯定感を得られた(裏切られたのではない)と感じることになりました。ワークショップを終えて帰る時、彼女は輝いていました。全身が赤みを帯び、痛みはなく、そして何より重要なのは、彼女は人生の新たな意味と目的を見つけた事でした。症状は、彼女自身の生命感へと彼女を招き入れたのです。症状が、彼女を目覚めるよう呼び声をかけていたのです。そのセッションから、奇妙な認識が生まれました。彼女が自分の生命感に目覚めることは、症状から解放されるよりもより重要なことなのだ、と。彼女は言ったのです。「私、もう怖くありません。」

Issue 12 image 4呼び声:上の話は、症状が病理学的なものであるという態度を機械的にとらない場合に起こり得る一つの例です。どのような種類のボディワークをしているとしても、クライエントの症状が注意を惹くための呼び声であると見なすことはできます。そうすることで、症状を楽にすることへの私たちの理解を広げられるようになります。症状に向き合って内側に入り、症状が注意を惹こうと呼んでいるのだと認めたなら、私たちはきっとクライエントが自分のヒーリングの経験に入れるようにできるのではないでしょうか。(こうした方法で)症状は緩和するでしょうが、症状を完全に消し去るところには焦っていかないようにしましょう。道しるべが取り去られてしまったら、道はどこにあるのでしょうか。これは、その人自身の人生に変化を起こす必要があるクライエントには特に重要です。こうすることで、自分の症状をまた自分で作ってしまうことをしなくなるのです。

熟練の修理・治療:ボディワークの技術を発展させ、洗練したものにしていると、不快感を抱Issue 12 image 5える殆どのクライエントを効果的に扱うことができますが、そこにクライエントの認知的な意識という付加的な道具を加えることも可能です。この道具により、私たちの効果と満足が何倍にも増強されることでしょう。注意を払いつつ、症状を導きとして取り組む際、その人個人の細やかさへとクライエントが入っていけるようにしたならどうでしょうか。もしも若いクライエントなら、(セッションで)症状と関わる過程を一生涯覚えていることになるかもしれません。ずっと先の未来に、加齢あるいは深刻な病からの症状が進んだ時、若き日のプレゼンシングを直感的に維持しているがゆえに、人生の旅路のその地点で起こってくる恐れが軽減するかもしれません。もしかすると、継続的なヒーリングに向かう道しるべとしての症状についていくことを学ぶことになるかもしれません。高齢のクライエントの場合、人生の旅路の最後の段階をヒーリングへと向かう動きにしていくよう、私たちはサポートできるのです。こうしたやり方で私たちはクライエントに満たされた感覚を得てもらい、それと同時にクライエントが自分自身のヒーリングへと向かっていく過程についていくことも教えられるのです。

最近のケース スタディ:例として、日本のクライエントでこういう方がいらっしゃいました。彼女はストレスを感じると、左半身全体にかけて神経性の震えが出るというのです。セッションの初めの頃はその症状を呈していました。恐らく、セッションに緊張していたからでしょう。通訳を通して、私は彼女に、内側から感じて震えがどのようなものなのかを言葉で表してもらうようにしました。それから私は、彼女が震えを誘発するところと説明した部位に手を置きました。彼女に私の手の接触を内側から感じて、誘発している刺激感覚を感じるよう伝えました。彼女がそうしてくれた時、私は筋肉の痙攣に温かさと柔らかさを感じられました。それから私は、痙攣を意識的に作り出すことができるかどうか、彼女にやってみて欲しいと頼みました。彼女はできたのです!彼女は、自分にその能力があると分かり、全身がリラックスしました。これで彼女は自分の症状と直接実験できる道具を手にしたのです。その後、彼女を紹介してくれたボディワーカーから連絡があり、彼女の症状ははっきり軽減し、また彼女のストレスに対する恐れの反応も大きく後退したとのことでした

ものの見方を変える:恐らく今私たちは、直・治す 対 直・治さないという疑問全体を超えたIssue 12 image 6何かへと向かおうとしているのでしょう。症状についての見方を変化させ、長年にわたる経験を生かし、私たちの取り組みに新鮮なアプローチ法を共に発見していくようになるのかもしれません。このアプローチを深めることについては、三つの原理があるようです:肉体は、生命についての感覚へと私たちをもたらしてくれる道具であること;症状は、訂正よりも注意を惹くための呼び声であること;クライエントは、ヒーリングと全体性へと向かって症状と随伴することにおいて能動的で力強い役割を果たせること。ここから私たちはどこへ向かっていくのでしょうか。もしもこうした要素の考察を価値あるものと考えるなら、おそらくは症状について分かっていることを精査するところから出発できるはずです。

Presencing Issue #13 A スーパーヴィジョンへの道

スーパーヴィジョンに向かって:スーパーヴィジョンの道
(c) Jack Blackburn, 2010

ほとんど存在に気づかれないのが最も優れたリーダーであり、
人々が服従したり賞賛するのはそれほど良いリーダーではなく、
軽蔑されるのはさらに良くない…
しかし、自分の仕事をやり終えるのに僅かに言葉を発し、それで彼の目標は完遂され、人々が「私たちが自分でやり遂げたのだ」と言うのが良いリーダーである。老子

何年も前に初めてボディワーカー向けのスーパーヴィジョンの記事を書いた時、あるメールを受け取りました。「私は上司から逃れるためにボディワーカーになったのです。いつも私を見張って何をすべきかを言ってくる人などもちろんいて欲しくありません。」私が書いた記事での「スーパーヴィジョン(監査・監督)」という言葉が、会社という世界から来ている根深い示唆があることにはっとさせられたのです。13A image 1 Hotei&boy

その世界でのスーパーヴァイザー(監査官、監督)というのは、私たちのする仕事がうまくできるよう環境を整える人々のことです。その人々は会社から要請を受けているので、雇われている側が要することや懸念には責任がない場合がよくあります。彼らは、会社の構造と株主たちに忠実なのです。彼らの仕事は、雇われる側から最高値の生産性と質を引き出すことにかかっているのです。

13A image2 Not_listening真のスーパーヴィジョンは、プレゼンスへと入って深く耳を傾けることを要する、大変高度な技術です。こうした傾聴は大変稀なものであり、慎重に磨かれなければなりません。完全なる注意を向けた傾聴には、自分自身の思考や判断から外れることが要求されます。自分の友人やクライエント、同僚の話を聞いている時に、自分のマインド(精神)を観察いてみるといいでしょう。あなたのマインドは、予想したり投影したり、話を作り上げたり、気が散ったり、また解決策を探したりしているのが分かるでしょう。自分でもあっても他の人でも、こうしたことが起こっているとはそうそう認めないものです。会話をしている人のボディランゲージを観察すると、その会話で話を聞いている人の動き方が露わになってきます。例えば、視点が定まらない、携帯電話や時計に注意が向く、身体がそっぽを向く、貧乏揺すり、あくび、他の人たちや周りで起こっていることに目をやる、などが見えてきます。こうした全ての内と外の力動は、私たちが(会話を)聞いているどのような場合でも起こっているようです。しかし、もう一つ別の聞き方があります。

静寂と静止へと入って耳を傾ける能力を発展させると、それまでとは異なる対話が起こってきIssue 13a photo 3 listening_deeplyます。何らかの、ある気づき、または“存在”が両者の中に生まれてきます…私はそれを「内在性の出現」と呼びます。それが、何か通常とは異なる感覚なのです…平安があり…好奇心と意味からなる繭があり…静かにあろうとする意欲があります。こうした種類の傾聴において、スーパーヴァイザーとスーパーヴィジョンを受ける人は、かなり驚くような何かに参与しているのです…生命力が溢れ…制限がなくなり…そして親密になります。思考と感覚を隔てるものは何もないように思えます…そしてあるのは、緊密な傾聴。傾聴が相互的なものになります。驚きが生まれ得ます…どちらも次に何がやってくるのかを知らないのですから。プレゼンスそのものへと入って耳を傾けることがそこにあります。それが会話の核をなしているように見えます。

HMO(米健康維持機構)のような会社機構に雇われていたり保険提供者によって支払われたりしているなら、「スーパーヴィジョン」は会社または提供者の利益を支えるために要求され得るものです。また(米国においては)、プラクティショナが職業のガイドラインと布告の義務を全うしているよう、マッサージ評議会によってスーパーヴィジョンが要請される可能性もあります。

Issue 13a photo 4_Up_in_the_Air
Up in the Air (2009)

殆どのボディワーカーが個人事業主で、会社組織とは独立しています。殆どの人が自己管理と自己責任下に自分をおいているのです。私たちは、どのようにしてスーパーヴィジョンを個人事業主とそのクライエントの利益として見ることができるのでしょう。まず二つの前提から始める必要があります。それは、プラクティショナは、プラクティショナ自身とクライエントに責任があるという前提です。

プラクティショナ-クライエントの関係性がスーパーヴィジョンの過程の核となります。会社機構だと、スーパーヴィジョンはやはり目標と価値によってなされるものとなりますが、プラクティショナは自分のスーパーヴァイザーと一緒に目標と価値を決めるのです。スーパーヴァイザーは、プラクティショナとクライエントの利益において適切なサポートと課題を提供します。ここでのスーパーヴァイザーは、職業での利益は二次的なものとします。

自営業のプラクティショナのための職業的スーパーヴィジョンへの原則の提案:

原則1:
スーパーヴァイザーの主な質は「傾聴」である。スーパーヴァイザーはプラクティショナとプIssue 13a photo 5_on_the_cliffラクティショナのクライエントの関係性を、傾聴と質問、課題、伝え返しによってサポートする。

原則2:
私たちは皆、内側を発見する資質があるのと同時に、そうした資質を表現する資質がある。スーパーヴァイザーの役割のひとつは、それらを発見し、表現するのを手助けすることである。

原則3:
スーパーヴァイザーはプラクティショナとクライエントのための支援者であるため、評価をしないことに献身する必要がある…スーパーヴィジョンを受ける人を評価しない、救済しない、資格を与えない、保証しない、罰を与えない、褒賞を与えない。

原則4:
スーパーヴィジョンは質問に回答を与えることについてのものではないが、共に探求をしていくものである。スーパーヴィジョンは、単にアドヴァイスや導きを与えることについては二次的なものである。スーパーヴィジョンを受ける人は、自分の取り組みを自分で行うことを学ぶ必要がある。

原則5:
スーパーヴァイザーは相手の証人となり、その人自身の仕事と内なる導きを発展させる能力における信頼を目覚めさせる目的で、相手の質問と答えを伝え返す。

原則6:
スーパーヴィジョンを受ける人のために間違いなく存在するためには、スーパーヴァイザーがスーパーヴィジョンを受けなければならない

原則7:
問題への答えは、通常スーパーヴィジョンを受ける人の中にあるのが真実である。スーパーヴィジョンの手腕の一つは、その真実を肯定し、プラクティショナ自身が自分自身のうちにある答えを見つける力づけをすることである。

原則8:
スーパーヴァイザーは、受ける人(プラクティショナ)とプラクティショナとクライエント間の関係性にある統合性とバランスを促進することに仕えるものである。

原則9:
スーパーヴィジョンは、三つの関係性を発展させるものである:プラクティショナ/クライエント、プラクティショナ/スーパーヴァイザー、プラクティショナ/プラクティショナ自身の関係性である。

原則10:
スーパーヴィジョンは、生涯を通しての関係性ともなり得る。私はこれを、存在へと入るパートナー関係と呼ぶ。それは両者の内にあるものを発見することである。人類の歴史における最も深遠な関係性のいくつかは、スーパーヴァイザーとスーパーヴィジョンを受ける人との間の相互的な信頼を基にした関係性である。

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肉体の復活 パート II 「師としての肉体」

 

肉体の復活 – パート II

「師としての肉体」

 ヘルマン ヘッセの『東方への旅』の主人公であるHHは、ひどく驚いてしまいました。仲間と共に東洋の謎の探求をする – 究極の真実を探す – 目的の旅は失敗に終わったのですが、その旅の間、HHが必要とする全ての世話をしてくれた忠実な召使いのリオこそが、いつも変わることなき真実の宝庫でいてくれたことが、何年も後になって分かったからです。私たちも、私たちの貯蔵庫となってくれているものに同じ驚きを持つことになるかもしれません。私たちの肉体は、私たちが耳を貸したくない時であっても、いつもよき忠実な召使いであり、私たちの必要に仕えてくれています。私たちが分離して人よりも優越感を覚える必要に駆られると、私たちは身体に非難を浴びせかけます。主な宗教のどれであっても、肉体は罪深く裏切るものであり、そのため罰に値するものとして身体を非難しています。おそらく、私たちは長きにわたって自己欺瞞を働いてきたのでしょう。HHと彼の仲間たちのように、私たちは究極の真実を捜し求めるのに間違ったところばかりを探してきたのではないでしょうか。もしかすると、身体-マインドというものが、常に目覚めるための導き手であったのかもしれません。プレゼンシングによって、肉体は私たちの意識を育てる道具として与えられたものとなり、存在性という謎を捜査する術となってくれるのです。もしやボディワーカーは、肉体の復権において直接的な役割を手にしているのではないでしょうか。

クライエントが身体症状を報告してくれる時、よく注意してクライエントの言葉に耳を傾けると、苦しみに恐れが関連している言葉をしばしば耳にします。外的な原因や責めるべき人がいない場合、クライエントはヨブのように自分を責める羽目に陥ります:「私が何か間違いを犯したから、そのために罰を受けているのだ」とか、あるいは「何かが間違っているに違いない。私にこんな罰が当たっていいわけがない」というように。これらが、隔絶された自分を強調していることに気づいて下さい – クライエントが自分の身体症状に入り込んでいけるよう手助けすると、ことは変化し始めます…まず起こってくるのは、責めるということが消えていくのです。症状それじたいが、クライエントと私たちを意識のより深い経験へと手招いてくれているかのようです。私たちは敷居をまたぎ、私たちの思考や記憶によって予め定義づけされていない通路を伝って入り込んでいきます。(プラクティショナとクライエントの)症状に対する嫌悪感が後退した時に、私たちはこの新たな場所へと入ってきたことが分かります。

 

私たちは、プレゼンシングの技法を用いて入っていきます – 身体の知覚できる感覚をプレゼンシングし、ついに身体-マインドという楽器を繊細にチューニングするのです。ルミは、私たちの魂、あるいは私たちの存在と呼ぶものの解剖学を測るために楽器を使うのだと言いましたbuckhornsunrise2プレゼンシングの実践に適応するなら、私たち自身の身体-マインドでできた楽器の各段階と用い方を学び始めるということになるのです。自分でこうした使い方を探求していくうち、存在性へと向かう旅を手助けしてあげたいと思えるような人たちのための
よりよい同伴者にもなってゆけるのです。共に、ボディワーカーとプレゼンシングのクライエントとして、私たちはそうした新たな認識へと入っていきます。身体の信号、特に症状は、信頼に値する通路となってくれるのです。

 

プレゼンシングにおいて思考は、観察と好奇心、内的な認識論のようなものに向かっていくようトレーニング(再教育)されます。マインドが身体の声明(コミュニケ)に多大な注意を払うと、結合された情報、身体とマインドはプレゼンシング(presencing)、先んじた感覚(pre-sensing)の経験を生み出します。瞬間から瞬間への観察は、問題解決や原因と結果の理論よりも深遠なレヴェルを生むのです。今や私たちは、クライエントと共にこの旅をしつつ共に歩んでいく新たな方法を学び始めているのです。

では、「肉体の復活」というのは何を意味するのでしょうか。第一に、身体-マインドはプレゼンシングの過程において変化させられます。そうした変化は、クライエントにもプラクティショナにも識別できるものです – プラクティショナは組織反応として変化を触知でき、クライエントは内受容(固有受容)感覚的に感じられます。身体の知覚できる感覚を通して瞬間ごとに観察することにより、マインドの中心は抽象的で隔絶的な知性から思いやりと包含的な感覚へと変化します。思考は、行き当たりばったりの自己中心的なものから、秩序ある、心が中心のものへと展開します。起こっていることを認識し始めると、身体は新VictorianValley1たな意味を取り始めます。自分の思考が感覚する自己(sensing-self)から現れてくるのを感じ、またさらに深いものが起こっているのを感じます。この思考のマインドは今、感覚の身体と同調して活動しているのです。思考と感覚が同時に沸き起こり、どちらも相互的な確証
の中、身体で感じられます。感覚される思考のこの確証は、身体-マインドにおいて変化を生み出します。それらの変化は、身体の中での副
交感神経優位の反応などに伴われるようであり、それは、身体-マインドにとって深遠な充実感と変容をもたらすものになります。

この変容は、意識的なマインドにおける覚醒(en-lighten-ment)と呼ばれるものに対して、身体での組織変化として感じられている可能性があります。今や身体-マインドの経験は全てがみずみずしくて新しいものとなり、防御や後ずさりといった古いパターンを手放すことで身体が反応するのです。意識的なマインドが経験の証人として身体に入り直す時、身体のシステムは新たな生命力を持って反応します。洞察が生まれ始めますが、それは生命から抜き取られたものではなく、むしろ生命に参加するところから生まれてくるようです。身体に光を当てることと変容させることには時間を要しません。事実、時系列の時間が、プレゼンシングとともにカイロス(意味ある無時間的な瞬間)へと変化するのです。すると時間は共-創造性の媒体になります。身体-マインドはそれ自身の共-創造性に参画しています。経験がカンヴァス(画布)であり、時間と行為は媒体であり、そして感じられる感覚あるいはプレゼンシングが表現となるのです。プレゼンスと共に肉体が復活するとき、時間は、私たちの隔絶された人生の杓子定規な統治者ではなく、すべての生命である生きとし生けるもののための召使いとなるのです。butterfly_Pinkflower

Presencing Issue #11-1 肉体の復活 I

肉体の復活 – パート I

身体に目覚める

“身体は、魂の天文学を計算する精密機器である”


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ジャラールウッディーン ルミ

身体は大変精密に設計された精密機器や楽器であり、そこには私たちの「注意」やマインドを感覚することも含まれます。思考のマインド、それは私たちが学校で鍛えるものですが、私たちの生活の中では多くの場合信頼を得るものとなっています。実際のところ、私たちの多くは、身体の内側で感覚することはほとんどなく、思考と感情にすっかり埋没していることが多いでしょう。自分の思考や感情を本当に「感じる」ことをする代わりに、ただ思考と感情から行為をしています。

個人の成長について数冊の本をものし、経営者のためのトレーニングを教える友人ジョン シアーとともに中華料理の夕餉に出かけた時のことです。私たちは自分たちの生活や仕事のことを話し、クライエントたちが自分の身体にソマティクス的に気づいた状態になったのを観察した時の驚きについて幾つか触れました。「それはまるで、クライエントがプレゼンス(今の瞬間)になった時にマインドと身体の狭間でクライエントに双方向的な目覚めが起きているかのようになるんだよ…身体は変化して、マインドが変化して、その人もまた変化しているようなんだ」。ルター派の牧師でもあるジョンは、言いました。「もしかすると、これは‘肉体の復活’という言葉が真に意味するものなのかもしれない」。その瞬間、彼が言葉にしたことの示唆するものに私たち二人は深く感銘を受けました。おそらく、身体-マインドはプレゼンスに満たされ、私たちが探し求める真の変容を遂げるのかもしれない…。

今の瞬間に起こっていることに注意を向けたなら、私たちの身体は導き手、となります。神経科学は今や、私たちが考えを持ったり行為に及んだりするに、身体は既に差し迫った選択の信号を予期あるいは発する、つまり前(上位)感覚(pre-sencing)を持つことを明らかにしています。もしも身体内の諸感覚をモニタリングして身体の信号に注意を向ける方法を学んだなら(プレゼンシング、presencing)、叡智と創造性がそこにあり、私たちの精神的な絡み合いの下で露わにされるのを待っているのが分かるのです。

思考は、身体と分離するよう鍛えられてきています。「バロン フォン ミュンハウゼンの冒険(『ほら吹き男爵の冒険』)」では、ロビン ウィリアムズが月の王を演じています。月の王は、あまりに肉体の欲望と食欲に嫌悪を抱いたために、ついに頭を身体から切り離すことに成功します。彼はその成功にかなり幸せでした…くしゃみをする羽目になるまでは。私たちの教育のほとんどが、お互いを引き離すこと、そして自分の身体

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映画「バロン」(コロムビア配給)より

から自分を分離させる方向性に向いています。身体は、快楽と身体が施行する機能のみに価値を置かれています。不快なものは全て、ペーソス(哀感・苦難)または苦しみであると捉えられます。そうして私たちは不快感から離れて(自分を分離し)自分の思考のマインドの中で精神的に理由を探します。もしも精神面で不快感の理由を見つけることができたら、あるいは理解できたなら、その苛立ちから自由になれると自分に言い聞かせるのです。これは、私たちが何かに悩まされた時の通常の措置です。するとマインドは、現在の経験から抽象的になる(上昇してしまう)か乖離するかし、精神的に説明と治療を探します。身体から自由になりたい私たちも、月の王のようです。

その瞬間に注意を向けるための呼び声である身体の言葉を学より、私たちはその不快感の時系列や原因と結果、理由、または責めるべき対象の人や事柄など、全てを思い出し始めます。責めるというのも、身体での経験から自分を切り離し、さらにその効果として今の瞬間からも自分を取り除く企てとなります。よく眠れない、悪い食べ物、悪い人、(毎)月のこの時期であるといったことなど、感じる不快感を説明できるものを見つけると、とりあえずほっとします。分離という私たちの選択は、不当性の証明になるのです。同意してくれる人や味方になってくれる人見つけられると、私たちはさらに安心します。ボディワーカーやその他種類のケアをしてくれる職業の人々は、images-4.jpegクライエントとより多くの時間を過ごして原因を探したり、治療や治せるようなことをしてみたり、責めるべ
きことに関するクライエントの物語に同意したりということをよくしてくれます。これらは、苦しみの終わりのないサイクルをしばしば繰り返すことになるパターンです(仏教ではドゥッカdukkhaといいます)。そうして私たちは、身体が一時的なものであるという事実を(仏教ではアニッカaniccaといいます)見ないようにし、 永続的な安心感を探す方に加担するのです。

 

しかし、身体の信号への反応の仕方には別の方法があるのです。その信号を私たちが用いて、あるいはクライエントが用いて、プレゼンスであり続けるという方法です – 特に不快感がしつこい場合にも使える方法です。プレゼンスの状態では、経験している症状に参加し、そこに入るのです…たとえ「原因」がわかっているとしても、です。参加しようという進んだ気持ち、そして好奇心を持つ気持ちの掛け値のない効果は、私たちが「苦しみ」を終えるということになります。仏陀は、苦しみには三つの原因があると発見しました:忌避、渇望、そして執着です。私は、この理解のより中心にあるものは恐れとの継続的な関係だと信じています。恐れは、苦しみの創造における積極性ある主体です。私たちは、不快感は恐れを抱くべきものと自らを説得しています。不快感から自分を取り除こうとするとき、自分の苦しみに先んじているのです。なぜなら恐れ、つまり動機になるものはまだ自分と共にあるからです。不快感がまたやってくるのを怖がると、怖さという苦しみはまだ自分と共にあるということになるのです。

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推薦図書:

Damasio, Antonio. Descartes’ Error: Emotion Reason and the Human Brain
ダマシオ, アントニオ R 『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』 (ちくま学芸文庫)

Gendlin, Eugene. Focusing and A Process Model

Goenka, S.N. An Introduction to Vipassana Meditation

Carter, Robert. The Nothingness Beyond God: An Introduction to the Philosophy Nishida Kitaro

Nyanaponika, Thera. The Heart of Buddhist Meditation

Ramachandran, V.S. A Brief Tour of Human Consciousness

Tolle, Eckhart. Practicing the Power of Now

Yuasa, Yasuo. The Body: Toward an Eastern Mind-Body Theory
湯浅泰雄 『身体論』 講談社学術文庫

Presencing Issue #10 プレゼンスの贈り物

プレゼンス – 失われた本質:日本文化に深く根ざすもので、おそらくは誰しもの宗教的伝統のその昔には存在していたもの。地球上のあなたたちにとっての全き喜びのための、最も偉大な力というものがあります。この特質、この失われた存在のしかたというのは、自然、愛する人々、毎瞬間に起こる特別な出来事、そしてこの身体によって私たちを取り囲んでくれています。私たちは眠りに落ち、偽物の夢を見続けているのです – 世界が崩壊し、生命の継続性を確証してくれる本質を失った世界の夢です。私たちの種族は、悲しみ、憎しみ、そして恐れの夢を見ています。互いが分断していると感じ、他の種とも隔たっており、生命そのものからも分離していると感じています。この失われた本質というのはすぐにでも手にでき、いかなる瞬間にも保持できるというのに – それでは、今の瞬間はどうなのでしょう。 IMG_2925.jpg

プレゼンスはいかなる瞬間にも手にできる:私たちの生活を動かしている、クロノスの時間の領域から離れ、生命のすべての本質が今手にできるようになる、時間が存在しないカイロスの時間へと移行することができます。この失われた本質には、準備や大学の学位も、特殊訓練も、経営能力も要らないというのは驚きに値するように思えます。そしてただ選択するだけで、これまでに夢にも思わなかったような、想像だにしなかったようなこと、そして計り知れない成功をも超えたものを獲得することになるのです。そしてこの本質は、費用はかからず物理的な過程や個人的な長所も要求しません。ただ完全にこの瞬間に入ること、それで私たちはこの本質を経験できるのです。今気づいて下さい。私が語りかけているこの瞬間に。この瞬間を抱擁できることに気づいて下さい。それはまるで鳥居をくぐるのに似ています。片側は恐れと痛みの夢の世界。向こう側は幸せと愛を感じる世界です。古代の人々はこの経験を知っていたのです。全ての宗教の古代の教えは、分離という夢から目覚められることを教えてくれています。

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プレゼンシング:それは悪い夢から目覚めるという選択です。私たちは皆、目覚めの瞬間を経験してきています。これまでに経験した遊び心や一体感を思い出すことができます。私たちは皆、かつて感じた子供の遊び心に飢えています;昔感じた好奇心に飢えています;それらは全て、時計に突き動かされないかつて経験した時間であり、それらを切望しているのです。プレゼンシングは、個人の選択なのです!周りにあるものが、プレゼンスの経験を手助けしてくれる可能性もあります – 愛情溢れる赤ちゃんの眼差しが私たち自身の純真さを映し出してくれたり、子供達の笑い声がしたり、子猫が喉を鳴らしたり、犬が尻尾を振ってぺろぺろと舐めてきたり。これらは全て、感謝と生命の歓びの兆しです。では、今この瞬間はどうでしょう。プレゼンスは今にしか起こりません。プレゼンスを学ぶと、それは無数の鳥居をくぐり抜けるようなものです。なぜなら、私たちはいついかなる瞬間にもプレゼンスを選び取ることができるからです。思考や癖、怒りや悲しみといった自動的な反応にどれだけ頻繁にとらえられてしまうか、それは関係ないのです。

プレゼンスの贈り物

愛:プレゼンスを実践するとき、生活の中でそれまでとは違った種類の愛が生まれてくることに気づくようになります – バラードや吟遊詩人の歌う愛ではなく、どこででも、だれとでも経験しうる深い愛です。それは、私たちの本性にとって根本的な愛です – それは人生の贈り物とともにやってくるようにみえます。おそらくそれは、創造物の最も素晴らしい贈り物です。なぜならそれは、創造物の源だからです。それは生命力そのものであり、引力のように根源的で、どこにでも、何にでも存在しているものなのです。この愛の充満は、プレゼンスの深い継続です。プレゼンスの状態にあると、愛が運命へと引っ張ってくれるのを感じられます。プレゼンスになると、行くのを恐れるところであったとしても、感じられる恐れが安心感となります。必ずしも恐れを克服する必要はなく、支えと安心感を与える手を差し伸べてくれている愛へと、生まれたばかりの赤ちゃんのようにただ自ら進んで到達しようとすればいいのです。そうしてこの愛ともにプレゼンスにいれば、私たちは世界のための愛の表現、鏡となっていくのです。すると今度は、映し返してもらえるようになります – 初めて自分自身の真のアイデンティティを目の当たりにし、全ての生命のあたたかさと確信を感じるのです。

恵み:恵み、恩恵というのは、通常よいことや幸せな出来事の集合として表現されますが、それはあたかも全宇宙が私たちを祝福してくれているかのようです。儒教での恩恵についての賢人の言葉では、恩恵は続くものではないと分かっているが故に悲しいものだと語っています。恩恵は、魔法のように人生の中で時折現れてくれるもののようでもあります – 仕事が全て完璧にいく1日、結婚式や家族の集まりがすべて完璧になる日のように。中には、恩恵というのはよい生活のしかた、善き人間であること、よい仕事をすることへの報酬であると考える人もいます。しかし恩恵は、私たちが今の瞬間、プレゼンスにいるときにはいつでも手にできるものなのです。愛と同じように、恵みは私たちの人生の表面よりもずっと深いところにあるものなのです。恩恵を感じるとき、時間が存在していないと感じます:時間の中で生きられる生と、永遠の生 – 無時間があるのだ、と。私たちが身体の中で生きている間、私たちはその両方の生命を生きる機会を手にしているのです。恵みがプレゼンスを通して手にできると認識すると、自分にも、そして周りの他の人々にも完璧な日々を与えられます。あなたのお友達、家族、あるいはクライエントが、あなたが恵みと愛の泉であり、そしてそれらを受け取る人だとみなしたならどうでしょう。

感謝:感謝は、プレゼンスの贈り物です – それはほかのものを光と歓びの中で抱擁する、豊かな感覚です。それは、受け手と同じく、与え手にも送られる贈り物です。感謝の念を抱くとき、私たちは恩恵に満たされます。私たちはより大きく、もっと柔らかく、そしてさらにオープンになって愛情に溢れ、遊び心を持つようになります。プレゼンスによって、感謝が生み出されます(英語での恩恵:グレイトフルネスは、グレイトとフルネスに分けると大きな満足(満腹)・豊かさという意味も見てとれます) – その満足さとは、どのような食事より満腹にさせてくれるものです。プレゼンシングにあると、私たちは感謝を受け容れ、他の人々にそれを渡すことを選びます。それは私たちを歓びでいっぱいにしてくれるので、異なる感覚になります。感謝は、義務感や借りを作るような感覚は全くなく、他の人々によって善行がなされたことへの単なる反応でもありません。プレゼンスの感謝は、自由の瞬間や愛の瞬間、そして私たちのまさに生命が貴重な贈り物であると認識したその瞬間瞬間に訪れるものです。プレゼンスの感謝は、まるで布袋の物語のようです。彼は欲しいものを無心しますが、相手はそれを断れません。なぜなら、彼はとても幸せであり、彼自身が他の人のための幸せの源でもあったからです。布袋は大きな身体で麻袋を携え、その中には尋ねた村の人々、あるいはある家族からの贈り物を入れていました。そして、彼はそれらが必要な人々に全てあげていました。彼はいかなるときも感謝の気持ちでいたので、いつも幸せでした。職業的なセラピストも布袋のようになれる可能性があります。その人たちもこの世界から数多くの贈り物を受け取るからです。もしかしたら、私たちがビジネスの公式を変えられるかもしれません:「プレゼンシングを通して、真に感謝できることで本当に欲するものを得られるのだ。得たものを他に伝えられるに十分なだけ私は感謝している – 与えることは私の感謝の表現なのだ。そうして私は幾度も報酬を与えてもらっている」

真のアイデンティティ:自分が何者であるのかは、どうして知るのでしょう。自分の歴史、名前、性別、友人や家族、環境は自分で分かっています。しかし、本当に自分が何者であるかを言葉にできるでしょうか。自分は他の人たちにとってとても重要かもしれませんが、その重要性は環境の産物によるものかもしれないと心の内で認識しています。私たちは皆、何かが私たちの内側で手招きをしているように感じています。そしてそれが「人生にはこれ以上のものがある」と伝えてくれている、とも。生命そのものの腕いっぱいに抱かれでいる、内なる切望の思い – 私たちはひとつになりたいという願い… 自分たちの持つ技術と能力を別のレヴェルに持っていきたいという強い願い…. 切望と不完全燃焼の感覚と… その感覚はいつも私たちに付きまといます – 本当によい時間を過ごした後でさえもです。プレゼンスを実践する時、私たちは真のアイデンティティの叡智のわずかなきざしと瞬きを得るのです。プレゼンスにあると、私たちは人生の青銅の鏡を覗き見ることになります。私たち自身の真の存在が映し出された姿を見始めるのです。真のアイデンティティを移し返してくれる人々が存在してくれています。プレゼンスでは、私たちは何も隠すこともなければ、隠されていることもないのだと認識するのです。布袋のお腹のように、何も隠すものなどないほうが私たちはずっと幸せなのだと気づきます – そのようにして、私たちは他の人たちが真のアイデンティティを見出すためのプレゼンスの鏡となるのです。隠すことも恥と思うことなど何もないのです…布袋の顔を見てみましょう。彼はあなたの真の姿をそのままに今映し出しているのです。彼は、あなたになんの判断も抱いていません;彼は、あなたがただ生命を手にしていること、それだけにしか関心を抱いていません。彼が真の青銅の鏡なのです。あなたは、他の人たちのための布袋になれるでしょうか。あなたはプレゼンスを信頼していられるでしょうか – あなたの雇い主や仲間、生徒やクライエントの真のアイデンティティのために。鏡となり、耳を傾け、彼らが本来の自分自身に感謝を持てるようになる贈り物を渡してあげられるでしょうか。

歓び:『ザ パワー オブ ナウ(今という力)』の著者エクハルト トーレは、「歓びの身体」を「痛みの身体」との対比として語っています。今起こっていることを、「イエス」と言ってただ受け入れることを選択すると、私たちは異なる次元に入って身体で異なる感覚を感じると述べています – そうしてまた私たちの身体が変化をするのだ、と。それはあたかも、私たちが継続的に「ノー」と言い続けているが故に痛みを持って生きているということのようにも思えます。それについて考えてみましょう – 人生に対して「イエス」と言ってみてはどうでしょうか。私たちは数多くの悪いことを経験し、時には幸せな気持ちになり、またある時には怒りを覚えたり、悲しくなったりします。すると、継続的に痛みがそこにあり、ものごとがあってほしいようにはなっていないことを表面下で思い出させるものとなるのです。プレゼンスの実践方法は、以下です:あるがままのことに「イエス」と言うのです。そうすることで、私たちは歓びへと入っていくのです。もしも、私たちだけが恐れと痛みに自分を縛り付けてしがみついているのだとしたらどうでしょう。プレゼンシングというその縛り付けからいつでも自由にしてくれる鍵を手にしているとしたら?その鍵を用いると、プレゼンスを通して私たちが創造している世界を愛するようになるため、生命に胸を開いて感謝できるようになるのです。

明晰さ:プレゼンスのもう一つの贈り物は明晰さです。知識を集めて明晰な理解をしようとしたことはどれだけあるでしょうか。科学の探求は、真理の探求を礎としています。しかし、より時間をかけて探し、知れば知るほど、知識をもとにした事実は私たちに理解を与えてはくれないことが分かるのです。理解(understand)というのは「下に ある・立つ(stand under)」(という英語の意味)から来ていますが、そこには身体で感じられる感覚があります。たとえば、禅の弓道を行うものは、思考が空っぽになることでいつ矢を放つのか、その感覚を得るのです。放つのは明晰性の感覚であり、プレゼンシングの経路上の身体的な感覚であって、それは的に至る矢の通り道を照らし、私たちのマインドを明るくするものなのです。この身体的に感覚される経験は知識によって生み出されうるものではありません。弓道家の経験のどの側面もばらばらに研究することはできても、明るみのその瞬間は理解できません。それはプレゼンスされた一瞬間であって、それが明るさと明晰性 – 全てがつながる瞬間をもたらすのです。決断というのもまた、明るさと明晰さの瞬間となりうるものでしょう。

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意味:
また別のプレゼンスの贈り物は、意味という感覚を見つけるということです。プレゼンスになる時、その瞬間が剣の鋭い鋒となり、過去や未来に浸っている私たち自身を、今という瞬間でそこか
ら切り離してくれます。今という剣は、全ての時代、全ての生命、全ての運命、全ての創造されるものと私たちを繋げるものです。そのようにして、この瞬間においてまたこの瞬間にのみ、私たちは個人的な歴史や文化的な環境よりむしろ、永遠に根ざしているものだという意味を見出します。この意味は、いつであっても私たちに訪れる可能性があります。その意味は特別な瞬間においてのみ感じられるという感覚を与えてくれるので、私たちはそれを認識するのです。その意味の源を全て理解するわけではなくても、私たちはそれを識別できるのです。全ての生命とのつながりへと意識を変化させることになります。そのつながりを感じる時、つながりと流れで日々を生きるようになり始めます。すべてが首尾一貫します。つまり、すべてに意味があります。プレゼンスの青銅の鏡を見つめることで日々を始め、継続的に意味を証しし、共に発見してゆくようになるのです。人生の明晰性、意味は感覚であり、知識の寄せ集めを通してただ起こってくるようなものではないのです。  IMG_1937.jpg

目的:プレゼンスをもって意味の感覚と揃う時、プレゼンスの贈り物すべてが与えられます。人生の中の物事が、努力することなくはまっていくようです。私たちの生命のが、つぎつぎと明らかになってきます。物質的な世界は目的という感覚を与えるものではないと認識するまでには、時間と経験がかかります。私たちは、到達と失敗の生活、電車に駆け込んだり美味しい食事に満足したり、眠りやセックスに満足を求めたり、周りの人の世話をすることもあれば周りの人と競争して打ち負かすこともあります。いかに物質的な生活が全てを与えてくれたとしても、物質的な報酬の表面下には苦しみと喪失感が隠れていると認識したため、仏陀は物質世界を離れました。彼は、苦しみと喪失を超えたところへと導いてくれる道を探しました。彼が発見したのは、苦しみを越えるためには苦しみへと入っていく必要があるということでした。座って自らの苦しみを経験し続ける中、彼には分かったのです:人生での良いものと言われるものは全てが苦しみを生み出す。なぜなら、私たちはそれらに執着をするからである。人生での全ての悪い出来事と言われるものは苦しみを生み出す。なぜなら、私たちはそれらを避けようとするからだ。シンプルなプレゼンシグを通して、つまりあるがままのものに「イエス」と言うことによって、目的というのは存在に編み込まれているものなのだと彼は認識しました。つまりは、それが生命の贈り物の真髄なのです。 

-創造性:プレゼンスの最も偉大な贈り物は、おそらくプロフェッショナルな人々・職業的な人たちにとって馴染みあるものでしょう。まさにそれが理由となって、私はこのことをお教えしているのです。真髄において、私たちに求められてきた職業的プラクティショナとしての個人的な創造性、卓越(した技術)、夢の認識というのは、プレゼンスを自分の導きとする際には私たちが演じることができる役割のための小さな道の一本一本であるというになるのでしょう。どれだけ成功していても、どれだけ失敗したり間違いを犯したりしても、私たちはプレゼンスの状態になれるのです。プレゼンスになってプレゼンスの兆しと贈り物すべてを経験し始めると、私たちは宇宙そのものとひとつに揃っていると認識し始めます。私たちの知識、個人的な能力、創造性は、力と物質的な報酬から成る個人的な王国よりもむしろ、生命の流れと共に働く方が何倍にもなるのです。私たちは、私たちの創造性をもってすでに素晴らしいことをしています。私たちの生活のあらゆる側面にプレゼンスをもたらしたなら、生命の、ふたつの隠された偉大なる秘密を発見することになるでしょう。生命そのものは永遠であること、そして私たちは集合的に経験している世界を創造してきている、ということです。私たちがこの世界を作り上げてきているのです。そして、創造的な技術と専心を生命と永遠に捧げることにより、プレゼンスの贈り物に満たされた世界を発見できるのです。

この最初のクラス(2010年)は、「パーソナル(自分で行う)プレゼンシング」と名付けられています。なぜなら、創造的なひとりの人間として私たちがプレゼンスを実践するまでは、世界は私たちの恐れ、偏狭さ、獲得癖などを反映し続けることになるからです。私たちは皆この生命という真の贈り物に目覚めていないので、まだ子供なのです。生命へのプレゼンシングではないような、様々な似たり寄ったりのアプローチであったとしても何某かの私たちが求める自由や喜び、愛と安全性を与えてはくれるので、自分を欺くことになっています。リーダーを備えて始まるような職業的な共同体は、創造性と知識を用いて死に絶えようとする世界を利用するやり方から、生命あるプレゼンスという意識をもち、全てを照らし出すような方法で世界を共に創り出す方へと向かうこともできるのです。生命共-創造的になることで、これまでに決して理解し得なかったことが理解できるようになります。つまり、私たちの目覚めを待っていてくれる全ての生命体という源泉を理解するのです。そうすれば、私たちはこの世界と共に、私たちの技術と創造性を全て共有する用いかたができるようになります。日本の伝統である七福神は、私たち自身の創造性をあらわし得る存在でしょう。神々は私たちの外にいるのではなく、私たちひとりひとりの内にあるのです。