Presencing Issue 21 職業的なチャレンジ

職業的なチャレンジ

image from Issue 21-1聞かれていないメッセージ:ボディワークの世界において、何か新しいことが起ころうとしています。全てのクライエントとの取り組みの表面下に、隠された真実がずっと存在しているのです:「あの肉体というものの内側に、何かが息づいている。」何年にもわたってクライエントと取り組んでいると、私たちは、様々なクライエントに役立つことについての気づきを発展させるようになり始めます。私たちの多くが、多種多様なクライエントの状態にどの手法が役に立つのかを鋭く感覚できるようにしてきています。それらの洞察の多くは、新たな手技療法の形態へと導くものとなってきました。効果の高い新たなボディセラピー形態をもたらしてくれた同僚たちに、私たちは然るべき評定を与えねばなりません。彼等のクライエントとの取り組みを拡大したところから、あるいは、他の種類のケアを与える手法の修養体験が融合したことによって新たな形態が生まれてきているのですから。新たな形態が生み出されてより効果があると証明されているのですから、今度は私たちが、それらを治療のレパートリーに加えることでが献身して行くようになるのです。

欠けている何か:セラピーの効果的な形態の多くを発展させるための、すべての勇敢な試みにおいて、私たちはおそらく最も特筆すべきメッセージを見落としてきているのです。つまりそれは「その身体の内側には誰かが息づいている」ということです。問診の過程において、またクライエントが経験している痛みのレヴェルについて、臨床的なセッションのある時点で訊ねたimage from Issue 21-2時には、クライエントがそこにいると私たちが認識しているのは事実です。しかしながら、殆どのセッションでは、治療的なものであれリラクゼーションであれ、クライエントは、基本的には起きているものごとには関わってきていないのです。あたかも、クライエントが自分の肉体を修理場に置いていき、修理工が修理作業を終えたところで後から取りに来るようなものです。私たちの仕事は、ダメージの修理か症状をなおすものと看做されているのです。忘れ去られているのは、クライエントがずっとその身体で生きているのであり、今この瞬間身体で起きていることに直に接触するのもその人である、ということです。私たちではないのです!

推測によって:事実、私たちは徴候や症状からクライエントが経験していることを推測することしかでず、手の感触や視覚的な印象で掴み取るものなのです。症状緩和に関する限りにおいて私たちは、肉体で起きていることへのある種第六感を養っているのです。クライエントは眠っていたり、ぼうっとしていたり、お喋りをしている、あるいはフラッシュバックを経験しているかもしれません。内側で起きていることは、私たちは推測しかできません。実際自分自身のマインドで起きていることに注意を向けると、私たちはしばしばクライエントその人とその人の人生について、物語をでっちあげているのです。私たちはセラピストとして、付き添っている症状や生み出してあげたいと願う安堵感と、自分ででっち上げた物語とを整合させようと日々を費やしているのです。

重要性の問題:おそらく、セッションにおける元も特筆すべきデータは、クライエントが今の瞬間に経験していることでしょう。このデータは、どのような技術の洗練やプラクティショナの直観よりも遥かに重要なものだと私は推測します。もしもクライエントが、セッションを通して経験したことを話してくれるなら、セラピーのロゼッタ石、つまり効果を見極めることにおいてはるかに進んだところに連れて行ってくれる根本的な内容を得ることになるのです。あなたがこれまでに経験した、最も効果的なクライエントの経験について考えてみて下さい。きっとクライエントは、セッションの前もセッションの間もその後も、通常より自分の身体を意識できていたのではないでしょうか。その一方で、私たちが第三者的な情報に重きを置いている場合、つまり、筋緊張状態や可動域、問診と診断、クライエントの痛みの査定さえもしたなら、クライエントの内にあるその瞬間の生命感を見逃すことになるのです。

真実を紐解くことへの献身:私は、「身体の中で生きている誰か」を追求することに今年のこimage from Issue 21-3れからの時間をかけています。この探求にあなたも加わってみてはいかがでしょうか。クライエントたちの身体の内側の生命存在に向けて、私たちはどのようにセッションをしていけばいいのでしょう。私たちが感じられる内なる存在の生命感と意識を証明するものは何なのでしょう。そして、クライエントがセッションで起こっていることに能動的に関われるようにするにはどのようにすればよく、またそのためには何ができるのでしょうか。ご存知のように、私は個人的に、長年この目標を追求し続けています。私たちは莫大な突破口の入り口にいる、そう感覚しているが故の探求なのです。私たちが用いるハンズ-オンメソッド(手を身体において行う手技)は、ほんの始まりでしかないのです!原因の探求やクライエントの歴史を紐解くことは、他のケアを与える職業の人々に任せて構わないでしょう。ですが私たちは、今の瞬間にある肉体内に存在するその人の経験に直接手を置くことになるので、それによって内と外から、心地よい感触と経験という両面から症状に達するのです。

探求を進めて:私は、ここシアトルにいる間も、日本にいる10月の間もこの探求をクライエントと同僚たちと進めるつもりです。私の来月のプレゼンシング ニューズレターは、クライエントの参加という論点にさらに肉付けをしていくものになります。この研究プロジェクトを全国的に遂行するため、私は二つ記事を出版する予定です日本に滞在する間この内容をさらに発展させる予定でもあります。ゲンジョウ マリネロに、セッション中のプラクティショナの導き手の役割についてのセミナーを共同開催して欲しいとお願いしてあります(11月17日)。またトリリアム インスティテュートでは、ボディワークの未来シンポジウムを再度スポンサリングします:12月28日夕刻、シアトルでの「ボディワークにおけるクライエントの役割」と題するシンポジウムです。このプロジェクトへの私の情熱を、皆さんにも感じていただけることを願っています。あなたはどのように感じられますか。やってみる価値があるとお感じになられますか。もう一度お伺いしましょう。「あなたも私と一緒にやってみませんか。」

Advertisements

Presenting Issue 20 相互的なヒーリングの関係性:クライエント-プラクティショナ– パートII

相互的なヒーリングの関係性:クライエント-プラクティショナ– パートII

クライエントの内・外的生活をプレゼンシングすることは互いの人生を変化させる私たちのimage1 from Presencing Issue 20内なる生活が永遠の瞬間へと向かって動いていく際の確かな兆しのひとつは、外的な生活が内面を映し出し始めるということです。私はこれを「出会われる・まみえられる」と呼びます。これは、クライエントにもプラクティショナにも起こります。多くの人々が、共時性や現実化が人生にあると発見すると驚いてしまうものです。プレゼンスを内面で実践することで、プレゼンシングの贈り物を経験し始めるようになります。それは、人生と共-創造的な状態へともっと入っていくよう導いてくれるものです。初めは、そうした「意味ある偶然」は驚きとしてやって来ます。人によっては、そうした「偶然」は操作し得るもので、人生で欲しいことや必要なものを作り出すのはコントロールできると教えられてきています。「現実化の技法」(例 『ザ・シークレット』)を学んでそうした結果を作り出すことをしてきている人々は、他の人々よりも有利であると教わっています。現実化の表面下で理解されるのは、不足というひとつのところから豊かさというもうひとつへと態度を変えていくことによって、私たちはより幸せでより満たされた人生へと向かっていくことになる、ということです。

image2 from Presencing Issue 20しかし、ボディワーカーが分かっていることが一つあります。それは、肉体を持つ人は誰しも、苦しみを等しく分かち合うようになるだろうということです。どれだけ豊かさを作り出そうとしたとしても、肉体は時間と共に衰え、かつ私たちは肉体で生きるものだからです。なんとか加齢を「阻害」できても、愛する人々を失うい、困難があるために苦しむことにはなるでしょう。私たちは皆相互につながり合っており、私たちの愛情は選択的なものであるがゆえに友人やクライエント、愛する人が亡くなるたびに心の苦痛を味わうことになります。肉体を、自分が優先するもののための奴隷として扱うと、肉体が人生にもたらし得る驚くべき清涼剤を逃してしまいます。私たちの肉体は、全人生にわたって忠実に仕えてくれているのです。しかし私たちは殆どにおいて、ローマの「鞭打ちの身代わり少年」のように肉体を扱う傾向があります。しかしながら、肉体は病気を近づかせないという隠された機能を発揮するものであり、私たちを意識のより深いレヴェルへと招いてくれるものであることを、私たちはようやく理解し始めたばかりなのです。この人生におけるどの経験も、肉体を通して感知されます。つまり肉体がある一方、マインドはしばしばあてもなくあちこちに動き、今ここにあることには注意を払っていないということです。ボディワーカーは、私たちの肉体が、永遠の生命への気づきへと向かう導きとなる「プレゼンスの楽器/精密機器」となり得ることに立ち会えるのです。ですから、内なる生と外の生活の間の幸福な合流は、操作も技術も要求しはしないのです。私たちはクライエントと共に、いついかなる時でも身体が「私たちを家に帰して」くれ得るのを発見するのです。

「それ(プレゼンシング)を得た人から、あなたにもそれがうつるのだ」ミルトン トレガーimage3 from Presencing Issue 20は、「フック-アップ」(プレゼンシング)と呼ばれるものに言及する際、冒頭の言い回しを何度も何度も用いていました。全ての生命の全一性と相互的な繋がりへの認識というのは、目覚めている意識の状態であり、特定の肉体的な健康状態ではありません。トレガーは、自分の身体で今の瞬間になった時、彼のクライエントが彼のプレゼンシングの状態と何らか同質のものを受け取ることができるという経験を何度も繰り返しました。彼は、驚きに値するほどクライエントの身体とマインドにある制限を減ずる技術に長けて行きました。ある意味において彼は、身体でプレゼンスの状態になることをひとりひとりに教えたかったのです。

image4 from Presencing Issue 20ミルトンは、プレゼンスの使者でした。彼のクライエントたちは、自分たちの身体の現実性への信頼の感覚、つまり生命の本質的な性質のようなものを身体で経験したのでしょう。しかしながら、彼自身の生徒をも含む多くの人々が、感じられた変化はミルトン自身に帰するものと見做し、ミルトンを彼らのグルという「人間存在のカルト」に作り上げました。これはある人々にとっては、ミルトンがした全てのことが崇拝され、模倣されるものとなることを意味しました。ミルトンからプレゼンシングの技術を学んだ私たちは、クライエントとともに私たちがしていることと、それで生み出される素晴らしい効果についてどう説明していいのか途方に暮れました。したがって、ミルトンから私たちが得たものは伝えられていくものである、という見解に至ったのです。実際何が起こっていたのかというと、トレガーのプラクティショナは、プレゼンスの状態になることによって、生命全てとの相互作用の中でその人自身が唯一無二の存在であることに気づき始めたということなのです。プレゼンスをより実践したなら、彼女はさらに永遠とつながることになるでしょう。このつながりは、彼女がミルトン トレガーを真似たからではなく、永遠の生命というふるさとへと彼女を運んでくれたものなのです。ですから、彼女はプレゼンスそのもののために、プレゼンスの実践をする必要があります。なぜなら、プレゼンスは彼女の身体の中へと内在的に編み込まれたものだからです。プレゼンスを実践するのは個々人の意志であり、それが鍵でもあります。グルへの崇拝の意ではありません。

ヒーリングは相互信頼から始まる:信頼は、ヒーリングへと向かう第一歩です。ボディワークimage5 from Presencing Issue 20において、信頼の絆がクライエントとプラクティショナ間に育つとき、両者はともに相互的なヒーリングに向かうことができるのです。全てのヒーリングは、経験の分かち合いを含みます。信頼無くしては真の動きは何らあり得ないでしょう。どのような技術をプラクティショナが手にしているにしても、クライエントとプラクティショナの間には経験の継続性があるはずです。いつであってもヒーリングは、一人の人間の人生の状況内で起こります。それはその人のみの内側だけで起こる出来事ではありません。ヒーリングは、人生を通した変化が開花するのを生み出すのです。水たまりの小石のように、プラクティショナとクライエントの関係性の中で起こるヒーリングの変化は両者の人生を通して広がり、やりとりに影響を与えます。これが、ミルトントレガーが口にした「うつる」ということなのです。ヒーラーの祈りは「この変化が全体性と永遠の生命へと変化し、全ての生きとし生けるものへと広がらんことを」ということなのです。二人の人間の間の信頼を認識するところから始まるヒーリングは、ヒーリングが遠く広がっていくための「社会的な合意」となり得るのです。

image6 from Presencing Issue 20神聖な空間– 内と外と今の瞬間への身体-中心のつながりを見出すことにより、プラクティ
ショナ-クライエントのティームは聖なる空間を創造し始めます。プレゼンシングの兆しが起こり始めるのです。静けさで織られた毛布がその空間を満たします;静止の不思議さと畏敬の念が、両者の内側から到達していきます;ふたりはともに、起こっていることが時間から外れたところで起こっていると気づきます;ふたりとも、起こっていることの分かち合いはエゴの思考に阻害されていないと分かり始めます…そのかわりに、ふたりともに思考されているのです;ついにふたりは、形は形なきものになっていると気づきます…肉体そのものが虚空に溶け込みます。存在性がそれそのものと通い合い…ヒーリングが全体性となっているのです。聖性さの静寂は、例外的なものなのです。

Issue 19 長期間にわたるクライエントとの関係性:奉仕の問題

issue 19 image 1

職業としてのボディワーク:ボディワーク・手技療法自体は古いものですが、職業としてのトレーニングを要求されるようになったのはここ30年ほどのことです。私たちの殆どが、手を置くことで人々がより心地よく感じられる手助けできるという理由でボディワークに関わるようになります。誰であっても、人にマッサージを施すことはできます。また文化によっては、他の文化よりもよりタッチ・触れることが多かったり、組織をほぐしたりする場合もあります。職業としてのボディワーカー・手技療法者となると、私たちの仕事へのアプローチに影響する問題が、その表面下に表れてきます。

issue 19 image 2私たちが扱う事になる、鍵となる問題のひとつは、自分自身の問題になります:つまり、無料で提供するサービスと、生計のためのサービスの違いです。高齢者はしばしば、私たちが身体に触れることに料金が発生する際に混乱を来します。人によっては、家族全員に無料で奉仕することが期待されるような文化背景を持って来ている人もいるのです。それで支払いをもらう段になると、私たちの側が、人への奉仕という自分の感覚と葛藤をきたすことがよくあります。

issue 19 image 3奉仕としてのボディワーク:私たちの職業は、人が心地よくなるのを手助けするために触れることと混同されるため、私たちが何をするにしてもクライエントは一般的に利益を得ることは分かっています。触れたり摩ったり揉んだりするのは、ほぼ全ての生物が相互作用しあう自然な方法であることを私たちは知っているのです。私たちが真にこの職業を愛している理由の一つは、この職業が思いやりの象徴としてどれだけ人々に利益を与えるかを理解しているからです。職業的に技術やマッサージ台やオイル、クリーム、枕やシーツを用いるとしても、それらは、愛溢れる慈愛のタッチを与えることに必要不可欠というわけではありません。どれだけ自分をプロとして定義付けしているとしても、サービス・奉仕の問題というのは私たちの職業全ての表面下にあるものなのです。なぜなら、素人のボディワークはかなり自由に行われているものなので、こうしたケアのしかたが私たちの職業のとらわれ方にいつもかなりの影響を与えるものとなるのでしょう。

禅仏教との類似点:私は、(私のスーパーヴァイザーであり友人でもある)ゲンジョウにこのissue 19 image 4テーマのセミナーを開催するよう依頼しました。なぜなら、仏教僧として、彼は人々への奉仕の道を理解しているからです。僧侶と尼僧の場合、肉体に触れることは必ずしもあるとは言えないものの、その一方、奉仕における全ての生きとし生けるものへの深い尊敬が教えの中で伝えられています。僧侶は、無生物の形態であっても全ての形態に横たわる本質、あるいは現在の存在を祝福するため、合掌してお辞儀をするよう教えられます。そのため、ひとつひとつの作業が心の表現となるのです…心中心の認知的な意識と慈悲心を発展させるという意図とともに。私たちの職業においては、日常生活の中で生きている存在への本質と感謝を持って肉体にアプローチすることが可能です。これは、クライエントを直・治さなければならないと感じることとはかなり異なる精神です。そこには、ともに取り組んで人への深い敬意と信頼があり、またその一方で、生命という贈り物を高めるありとあらゆる機会を同時に与えることになります。issue 19 image 5

何らかの肯定的なことをする…環境もクライエントも傷つけることなく:仏教には「正命(しょうみょう)」と呼ばれる概念があります。いかなる知覚生命体にも害を及ぼさず、環境にも害を及ぼさず、生態系に存在するパターンを阻害するような条件を作り出さずに人間の生活をする、という意味です。そのようにして、修行者は生命のシステムを支え、それが栄えるように全てのことを行います。こうした価値というのは、いかに私たちの取り組みに活かせるものになるのでしょうか。おそらく、親としての本能という例は、発展と成熟するものとしての生命への奉仕の感覚と近いものではないでしょうか。正命の概念もまた、「ケア・世話や配慮をすること」が含まれます。私たちの職業には、人々へのケアと「害を与えない・傷つけない」ことが少なくとも意識的に含まれているのは大変幸運なことです。また、私たちの職業は金銭に突き動かされるものでもありません。どのようなボディワークの職業でも、どこであってもどのようなことであっても、人々への奉仕をする能力と選択肢があるのです。

奉仕と強制労働の違い:しかし、奉仕と強制労働には違いがあります。私たちの職業には奉仕issue 19 image 6と思いやりがその中核にあるとはいえ、人を支えたいという意志と、他の人々の必要性に仕えることとの間に区別をつけるのは重要です。これは、ボディワークと売春の間でもっともはっきりと見られるものです…私たちの職業にとっては、大変適切な区別でありつつ、皮肉な比較となるところですが。クライエント、保険会社、そしてその他のケアを与える職業は、しばしば私たちの職業を隷属の一形態と看做しています。この理由の一つとしては、ボディワークをしているのが圧倒的に女性の割合が高いということがあります。ちょうど、伝統的な主婦というものが家庭生活を続けるための仕事をしても支払われないのと同じように、ボディワーカーは最後に支払いを受けるものであり、またケアを与える職業の中でもっとも敬意を払われない立場にあるのです。issue 19 image 6-2

1981年に、オーストリアの哲学者であるイワン イリッチが「シャドウ ワーク」(影の労働)という題の本を出版しました。この語は、ほとんどが女性である、最も支えとなる労働に携わる人々が、全く支払いを受け取れない、あるいはごく僅かな支払いしか受け取れないということを示す狙いがあります。私の経験では、ほとんどのボディワーカーが生活をしていくに十分ではありません。特に子供がいる場合はそうなのです。パートナーの収入がなければ、(米国での)健康保険を受けることや休暇を取るだけの余裕がありません。女性の労働というのは以下のようなものです:

ノラ

ノラは1セントたりとも稼がず
ノラは一度も家賃を払ったことがなく
ノラはほとんど家から離れたところに行ったことがない

ノラにとって第一には妻であり
赤ちゃんに息吹と生命を与え

家を掃除しご馳走を供し
ノラは自分が最も価値がないと感じるのだった…

覚えておかなければ、忘れてはならない
ノラの人生の真の意味を
そして彼女は1セントたりとも稼がず私のために人生を捧げてくれたことを

© 2000 Susan Osborn ReUnion album: tribute to her grandmotherスーザン オズボーン アルバム リユニオン(再結合):彼女の祖母への賛辞

ジャックケアをしてあげることケアを与えること:ケアをしてあげることは、自分で世話をできない人々の治療や世話・ケアを、その人に代わってしてあげることです。ボディワークissue 19 image 7では、クライエントの保険の契約の条項が、ケアをしてあげる役割にボディワーカーを位置付けています。直す・治すことや症状緩和の強調は、プラクティショナとクライエントの数多くの選択肢を取り去ることになります。それらのセッションは限られているものだとはいえ、辛いクライエントにとっては大きな助けとなります。クライエントが自分で選択・決断したい気分ではない時には、プラクティショナの方もまたケアをしてあげる役割が自分だと思い込むものなのかもしれません。ケアをしてあげる人としてのプラクティショナは、治療の目標と結果に責任を負います。クライエントの依存を育てることになる場合には、ケアをしてあげるのは不適切なものとなります。

ケアを与えることは、ケア、援助、助け、介助、治療、注意などをクライエントに与えることです。ケアを与える側においては、特定の結果を生み出すという義務はありません。私たちの主な義務は、クライエントと共にあることと、可能な治療的過程です。ケアを受ける人は、その人自身のケアの過程にきちんと責任を持つことが保たれます。それはプラクティショナの選択とケアの目標も含みます。

クライエントとの取り組みの中核は、私たちがすること、つまり私たちの役割に対する私たちの側の受け取り方になります。私たちは、料金を受け取るために仕事をするという召使いとしてそこにいるのでしょうか。他の人に心地よさとサポートを与えることで大きな喜びを得られるからそこにいるのでしょうか。時にこれはかなりの混乱を来します。なぜなら、私たちは自分の仕事からのたくさんの喜びを得られるからです。

セッションにおける境界線:私たちの職業はケアを与えるものであり、そのために全てのケアissue 19 image 8に携わる人々が直面する問題を扱わねばなりません。クライエントが自分のケアをできる能力と、その質とケアの質のバランスをいかに取るのか、ということです。十分に与えた時には、どうしたら分かるのでしょうか。クライエントの重荷を引き受けすぎる時というのはいつなのでしょうか。奉仕の問題は、私たちの無自覚さと不必要なケアの引き受けかたに影響するものだと私は信じています。奉仕は、いかに私たちの職業そのものがそれ自体を定義づけるかが中心となるものなのです。人のケアを引き受け、人々の苦しみを楽にすることは、人間の特性の自然で賞賛すべきことであるがゆえに、複雑な論点なのです。奉仕の問題はまた、倫理的な問題でもあります。なぜなら、他の人に代わって重荷を背負うことは、コントロールの可能性とクライエントとプラクティショナ双方向における操作の可能性を孕んでいるからです。

贈り物と交換の疑義私が強調したいことのひとつは、奉仕というのは強要され得ないissue 19 image 9態度である、ということです。真に「奉仕」たるには、自由に与えられねばならなりません。奉仕は、与える側と受け取る側両方にとって喜ばしいものです。私たちが奉仕という場から与える時、クライエントが人生の中で、同じ精神を他の人々に伝えることは可能です。ネイティヴ アメリカンの文化で次のようないい習わしがあります:「贈り物は動き続けねばならない。」真の贈り物は強要され得ません。ですから、クライエントから贈り物をもらったりクライエントと交換をしたりすることに葛藤を来した時には、与えるという過程をより深い観点から見てみる必要があるのです。もしかするとクライエントは、彼ら自身の存在に敬意を払って「仕えること」にぴったりする方法を求めているのかもしれません。

私たちの仕事の「奉仕」を愛する:症状緩和に焦点を当てるがゆえに、私たちは、思いやりとサポートを提供する意図があってこの仕事をしていることをいとも簡単に忘れてしまうものです。ちょうど禅の修行の、全ての知覚的な存在に思いやりと注意を向けること(時にこれは「合掌礼拝」と呼ばれます)のように。どのクライエントにも、どのセッションにもそのように向かうことは可能ではあります。よくあることですが、私たちあるいはクライエントが症状にすっかり焦点を当てることになると、与えることの真の喜びは失われます。奉仕は心に響くものであり、治療もまた心に響くものになり得るのです。しかし私たちはしばしば、「奉仕」そのものを忘れ、隷属的になるかどうかの選択のみになってしまいます。私たちがクライエントに捧げられる最も大きな贈り物は、私たちの分かつことなき思いやりある配慮なのかもしれません。多くが「シャドウ ワーク」と呼ばれる、歴史の根深いところで行われてきたものは、奴隷たちによってなされました。時に私たちは、クライエントの要求に応えようとする時、賃金労働の奴隷のようにまだ感じてしまうものかもしれません。

あげてしまうことができる…私たちの選択:私たちの職業的な文献では、タッチを通してのコミュニケイションであるなぐさめとサポートについては無感覚になっているようです。メグ ロブションの「終末期」のクラスでは、ケアを提供することとクライエントと「共に在る」ことによる共感について語られます。その意味での奉仕は、決して強要にはなり得ません。実際私たちは、「あげてしまう」という選択ができるのです。つまり、生命そのものに提供する配慮や治療を捧げる、という意味です。

「自由に与えられる」ことと自由のために与えることには違いがあります。私たちが最も愛するセッションについて考えてみるなら、そこにはクライエントとプラクティショナ両者のための自由という質があるのです。長きに渡る関係性においてはしばしば、与え方よりも、「与えるという自由」の方により配慮することがあります。この変化により、両者が奉仕の統合性を感じられるようになるのです。

issue 19 image 10

Presencing Issue 18 相互的なヒーリングの関係性:クライエント-プラクティショナの融合

相互的なヒーリングの関係性:クライエント-プラクティショナの融合

Issue 18 image 1独りで癒される者はいない:この言明の示唆するところには二重の意味があります:どの癒し・ヒーリングも二人あるいはそれ以上の人が含まれます。なぜなら、真の癒し・ヒーリングは分離から離れ、融合へ向かう動きだからです;プラクティショナもクライエントも、病と肉体を痛めることへの受け取り方を訂正しているのです。一般に、症状の緩和に焦点を当てている際は、私たちは癒しやヒーリングについては語りません。しかし、もし症状が、人生の生き方に注意を向けられるようにするための無意識的な方法での召喚だとしたならどうでしょう。病と肉体を痛めることの受け取り方が、プレゼンスの共有とともに癒されるとしたらどうでしょうか。

何年ものヴィパッサナ瞑想で、私は、痛みの信号は今の瞬間にのみ起こることを学びました。そのように痛みを「プレゼンス(今の瞬間)へと入るための呼びかけ」とみなすこともできるのです。クライエントがセッションに抱えてくる痛みが、ふたり双方にとってプレゼンスの状態になるための呼びかけだとしたらどうでしょう。ソマティクス的な認知意識とともに、身体は「存在の土台」とコミュニケイションをとるための精密機器となるのです。私たちは、触れること・タッチでひとつになる理由を授けられているのです。お互いにプラクティショナとクライエントとして出会い、今だけに起こる出来事を分かち合います。もし、私たちの身体が、プレゼンスに参加するための精密機器であると仮定してみたらどうでしょう。すると、プレゼンスの基本原理は、私たちの内と外の感じられる感覚(フェルト センス)を通して症状に付き添い、ついていこうとするお互いの同意だということになります。

互いに注意深くソマティクス/プレゼンシングを通して:通例のボディワークのセッションにおいては、プラクティショナは料金を支払ってくれるクライエントの要望に付き添います。しかし、プラクティショナとクライエント双方が、意識的にソマティクス的に気づいている状態になると、何か別のことが起こります。共に傾聴するという親密な繋がりが形成されるのです。セッションの目的は、相互的なヒーリングという分かち合われる経験へと入っていきます。それぞれが異なる役割を果たす一方で、両者ともに無分離の状態へと入ることによって利益を得ているのです。プレゼンスに入り、媒介を通さずに身体の信号に至ると、プレゼンシングを通して知覚し理解し始めていることにそれぞれ気づきます。媒介を通さずに、というのは、思考のマインドが身体の信号を解釈しようとしない、という意味です。身体の信号は、起こっているいかなることにも継続的に伴っているのです:痛み、圧、思考、感情、記憶、組織操作、ヴィジョン、洞察、言葉、肉体的な機能といったものとして。

プレゼンシングにおいて、人は相手の人の身体の状態を感じることができます– それもまた、フェルト センス(感じられる感覚)と呼ばれるものです。この感覚能力を説明するひとつの方法は、思考、知覚、概念、解釈、観察を投影する条件づけられたマインド・精神は、プレゼンシングにおいて今や、ありとあらゆることが肉体での感覚刺激を通して透過している、という説明です。この肉体の感覚刺激の知覚力は、卓越した身体の感覚刺激によって基礎を確立し、確証ある身体中心の意識へと導いてくれます。プラクティショナは、クライエントの肉体的、感情的、エネルギー的な層の様々なレヴェルを感じられます。クライエントは、プラクティショナの注意深さ、安定性、身体状態:バランスが取れているかいないか、疲れ、相互作用Issue 18 image 2.jpg性、好奇心、クライエントの経験に進んで参加しようとしているか、といったことを感じ取れるのです。

ふたりあるいはそれ以上が集うところどこであってもそこに私はいる:この言明は、通常キリスト教の文脈で解釈されます。欠けている言葉「私の名において」は、イエスあるいはキリストと解釈されます。しかし、キリストはまた、集合的な人類の意識を包括する存在を示してもいるのです。「私はいる」というのは、全ての創造物の源とともにあるワンネス(一なるもの)も意味する、神の認識のレヴェルにおける存在を意味します。そして「集う」という言葉は、プレゼンスの分かち合いを意味しています。

Issue 18 image 3ですから、ケアを与える人々のための解釈としては、「二人の人間が意識的にプレゼンスを分かち合う場どこであっても、ヒーリングは可能である」として構わないでしょう。ヒーリングが起こり得るのは、両者がキリストの意識、あるいは全一性へと入っていくからです。ア コース イン ミラクルズでは、このプレゼンスの分かち合いが「分かち合われる聖なる瞬間」と呼ばれます。プレゼンシングが共有される状態では、聖なる瞬間が、永遠である今という状態へと導きます。このヒーリングの解釈は、両者が全一性あるいは目覚めへの認知的な意識へと向かって動いていくことを示唆しています。私たちのタッチとソマティクス的な意識を用いる際のステップは、私たち自身とクライエントを、真のヒーリングと目覚めへともたらすものとなり得るものなのです。

クライエントはプラクティショナの身体を内側で感じられる赤ちゃんがお母さんを感じるように:子宮の中の赤ちゃんは、母親の身体に起きていることを固有(内)受容感覚的に感じ取れると考えられています。母親が目覚めているのか眠っているのか、歩いているのか走っているのか、水に浮いているのか、重い荷物を持っているのか、あるいは身体のバランスが取れているのかいないのか。多くの人がまた、赤ちゃんは母親の感情的な状態を感じられ、母親の感情的状態と肉体的化学反応によってじかに影響されていると信じています:母親がお腹が空いている、悲しい、用心深くなっている、満たされている、消化している、カフェインに影響されている、恍惚としている、エンドルフィンを経験している、アドレナリンが放出されているのか副交感神経優位のリラックス状態にあるのか、などといったことです。

子宮から出た赤ちゃんは、胎内にいた時と似た母親との繋がりの反応を示し、また他の人間にIssue 18 image 4も、母親とのそれよりも低い程度で繋がり示します…恐らくは、この赤ちゃん(の物理的な身体)を超えた感覚的な認知意識は、赤ちゃんのもつ信頼と不信の感じ具合で増減するのでしょう。赤ちゃんは、母親の身体の近くに抱きかかえられ、身体全体で揺らされると落ち着きます。もしも赤ちゃんが親の身体の引力の中心から離れたところで動かされたら、赤ちゃんは激しく手足を動かし始めるでしょう。また、抱いている人が腕と肩だけを使って赤ちゃんを揺らした場合も同じことになります。

赤ちゃんのように、クライエントとプラクティショナの関係も、相互的な信頼が発展するにつれて高められて行きます。治療台の上のクライエントがソマティクス的に気づいた意識状態になると、プラクティショナの手と身体から来る数多くの信号を感じられます。プラクティショナの身体のバランスが取れていなかったり、プラクティショナが手と腕しか使っていなかったり、心ここにあらずなのかここにいるのか、またプラクティショナのしていることがクライエントの身体で起こっていることと調和しているのかどうかといったことは、クライエントには分かるものなのです。

プラクティショナはクライエントの身体部位でクライエントの意識を感じられる:プレゼンスの状態になったプラクティショナは、プラクティショナのマインドではない何かによって導かれていることに気づくようになります。彼/彼女は、今存在しているクライエントの身体での変化の潜在性へと向かいます。それはあたかも、プレゼンシングによって、無時間や永遠の次元に存在する、クライエントの秘めたる癒し・ヒーリングに到達するかのようです。クライエントの潜在的なヒーリングにアクセスするのは、全体性へと向かうプラクティショナとクライエントの間の動きでもあるのです。

Issue 18 image 5両者が、ソマティクス的な認知意識によって時間の存在しない領域に導かれ、二人の潜在的なヒーリングがセッションを導いています。このヒーリングはまた、イエスの言ったことによれば、「私は在る」あるいは普遍的な存在性へと向かう動きでもあるのです。この動きにおいては、個々人の認知的な意識を微塵も失うこともなく、自身あるいはエゴ・自我の境界線の溶解が起こります。セッションがこのプレゼンシングの輝かしさを纏うとき、プラクティショナの手は、クライエントの身体意識から生ずる変化への潜在性に導かれます。言わば、身体中心の意識の出会いがそこにあるということなのです。セッションは、展開する認知的な意識の過程(プロセス)となっていきます。私たちは皆、自然の中や愛する人々といった、人生の親交の中での頂点の経験でそうした拡張した身体意識の過程を経験します。

プラクティショナとクライエントがタッチを通して相互作用する:プレゼンスによって導かれる時に起こることは、私たちはほんの部分的にしか理解していません。 子宮の中の赤ちゃんのように、相互に発せられる情報というのはとてつもない量なのです。プラクティショナとクライエントが、いつもタッチは双方向的であると気づくのです…あなたが触れている人は、あなたに触れてきているのです。その一方、殆どのボディワークは一方方向のように思えます…クライエントのマインドはマインドそのものに埋没して自己陶酔状態になってボディワークを受けているだけで、相手に与えることはしてはいません。母親とお母さんの間でもこのようになり得ます…赤ちゃんが眠っている時でさえもそうかもしれません。

クライエントがソマティクス的に気づいた状態になる時、クライエントは自分のタッチが自分Issue 18 image 6.jpg自身の深いところにある存在からきていることにも気づくようになります。ソマティクス的に気づいた状態になっているプラクティショナにも同じことが言えます。ですから、プレゼンシングを分かち合うタッチの主体は、それぞれの人のうちにある存在性となるのです。これは、互いが欲望を達成するような性的なやり取りとは全く似ても似つかないものです。分かち合われるプレゼンシングには結果はありません。なぜならそれは、全ての人、すべてのものとともに在る共-創造性に向かう継続的な動きだからです。プレゼンシング タッチの親密さは、すべての生命への感謝と生きとし生けるものに溶け込んでいく方に向かって育って行くものであり、しかも時間に縛られてはいません。共-創造性は、生殖よりもずっと偉大なものなのです。

プレゼンシングの実践者はクライエントの内在性と調和できる:それぞれの人の内側には、私がさきに「内在」と呼んだ全体性と、ヒーリングへの潜在性があります。この内在的存在は形なきもので、時間もなく、すべての生命の源を決して離れたことがないものです。それはすべての存在の胚形質です…永遠、無限、絶え間なく創造的で、拡張して行くのです。プレゼンスは、私たち自身の存在と直に繋げてくれるものであり、その存在がすべての生命と分かち合われていることを証明するものなのです。私たちとクライエントがプレゼンスを実践する時、私たちはまるで内在する存在性が現れるよう呼びかけているようなものなのです。

私たちは、存在のレヴェルにおいてもっと生命に気づくようになります…そして、私たちがその存在の表現者となるのです。私たちとクライエントがより多くプレゼンシング を実践して行くと、存在の表現としてのやりとりを目にし、感じ始めるようになります。私たち自身の内在する本質が現れ出る時に気づくと、出来事や周りにいる人々によって確証を得ることとなります…存在が存在と出会い、存在によって確証され、思い出され、分離が終わり、ワンネス・一なるものを認識します。それは、内在する存在性が現れ出てくることの証拠となって行くのです。

 

Presencing Issue 17 ボディワーカーにとっての特異な役割:私のヴィジョン- 中核にあるプレゼンシング

「朝は4本脚、昼は二本脚、夜には3本脚、そして弱くなるほど
もっと脚が増える動物は何か」
スフィンクスの謎かけ

Issue 17 image 1もしもこれから私が申し上げることが、あなたのボディワークについてのお考えを攻撃しているように感じられるとしたら、どうかお許し下さい。なぜなのかはうまく説明できないのですが、この職業がこうなったなら、と思うことについて、私はより具体的なヴィジョンを持ち始めるようになりました。1986年にボディワーカーになってから、私はボディワークをヒーリング・癒しの職業と考えてきました。しかし、私にとってのヒーリングの意味というのは以下のことも含みます。スフィンクスの謎かけのように、誰の肉体も病気になるもので、年齢と共に衰え、そして誰しもの肉体が死ぬものなのです。ですからヒーリング・癒しというのは大いなる謎のように思えるのです。

ヒーリング(癒し)という言葉は、“hale”という語から派生しています。この語には、全体とIssue 17 image 2健やかさという二つの意味があります。人が人生と良い関係性にあれば、その人は健やかだと言えるでしょう。肉体的、感情的、精神的、そしてスピリチュアルにも、“whole” (全体、完全な、全人的な)という言葉も同じように用いることができ、人生と完全な関係性にある人を意味します。私にとって、病気というのは、人がある意味において人生と分離しているように思えるものです。通常私たちが病気として言及するものを考えてみると、いずれも人生との完全なる関係性から何らかの意味で引き下がることだといえるでしょう。それは肉体的に、感情的に、精神的に、スピリチュアルに、いずれの面であっても言えます。その意味において、病気はあらゆる形態の分離、つまり不信感、疎外感、偏見、判断、そしてその他のあらゆる分断を含むものなのでしょう。

Issue 17 image 3ケアを与える職業は全て、病気の人が、人生との関係性を部分的にあるいは全て回復できるよう援助をするものです。もしも、病気が何らかの分離の状態と見なすのであれば、全ての人類は病気で苦しんでいると言えます。そして、全ての病気は、分離への思い込みから派生しているか、あるいはその思い込みがより悪くなっているかなのです。これは私が初めて言っていることではありません。慢性的な病の基本的な原因というのは、私たちが、お互いに分離の態度を持続しているところにある、ということです。1968年の雑誌『ニューヨーカー』は、仔犬たちが組んず解れつの様子を、人々が微笑んで見ています。ですが、その人たちはお互いには微笑み合ってはいません。癒し・ヒーリングの根本的な機能は、人間が互いの人生から引きこもっているのを反転させるということなのです。

幼少時の(親との)きずなを断ち切ることと個人主義の始まりともに分離の行為は始まります。殆どの発展した文化において、そうした時期には触れること・タッチを制限するようにな
ります。その制限には触れる・タッチをやめることも含まれますが、それによって他のコミュニケイション形態が不安全になり、制限が必要になるのです。触れることが子供にとって混乱を来すものとなり、特にホルモンに変化が出る思春期の子供達には特にそうなっていきます。そうした混乱は、私たちが肉体的により成熟するにつれ、さらに混乱を来すものになります。

しかし、動物やあまり区別をしない文化を見てみると、触れることはそのまま継続して行き、Issue 17 image 4健やかな生活において大変重要な部分を占めるものになります。思うに、殆どのボディワーカーが触れること・タッチが健やかさに必要だと同意するでしょうが、先進世界においては、私たちボディワーカーの方が少数派になるのでしょう。私はこう信じています。全てのケアを与える職業、つまりボディワーカー・手技療法者は、殆どの病の形態が横たわる分離という誤てる感覚を終える、という最も重要な役割を担っているのだ、と。そうした方法において、個々人の癒しと、おそらくは人類全体としての癒しへと向かっていくことに、私たちが多大なる影響をもたらせるのです。

 

 

Issue 17 image 5もしも、人生の全ての段階において身体に働きかけることによって、ボディワーカーが癒し・ヒーリングの謎かけを解くことができるなら、きっと私たちは集合的な種としての再統合と目覚めに大きな役割を果たすことになるでしょう。アコースインミラクルズ(ACIM、『奇跡講座』)や、ヴェーダのような古代のスピリチュアルな文献は、人類は眠りに落ちて、分離という夢を見ていると明言しています。私たちのマインドは過去の記憶に埋没しており、それも夢の状態の一部である過去にはまり込んでいるのです。過去中心の夢の状態では、私たちは過去の経験をもとにしたものの受け取り方に固執します。過去は存在しないのですが、私たちは今ここで起こっていることよりも、過去にずっと多くの注意を払うのです。過去への埋没が、人生との完全なる関係性を不可能にしてしまうのです。

今という瞬間になることが、癒し・ヒーリングの謎かけを解決してくれる、そう私は信じています。

ACIMは、私たちは過去に固執するために記憶を用いると言います;しかし、真の記憶の用いIssue 17 image 6方というのは、を思い出すためのものだというのです!私たちは、身体の中でその瞬間を感じて「今」を思い出します。従って、クライエントに(ソマティクス的に気づくようになって)身体を自分の一部として取り戻す・思い出すことを教え、夢と分離という病から目覚めるための道具を私たちが手渡してあげるようになるのです。

今身体で起きている信号に注意を向けたときに何が起こりうるのか、一つ例を挙げてみましょう。

Issue 17 image 7感情的な変化:今この瞬間に、あなたが内側で感じる感情に気づいてみて下さい。その感情には感情名をつけられるかもしれません。恐れている、怒っている、悲しい、など。その感情やそれがどこからきているのかを理解しようとする代わりに、ただ単にその感情の肉体的な影響を感じましょう。もしかすると、その感情に伴う何らかの強張りや、燃えるような感じ、あるいは弱々しい感じや無感覚さを感じるかもしれません。その感情の部位を特定し、その感情の肉体的な特質を言葉にしてみましょう。強度、形、リズムなど。こうしつつ、イメージや記憶、名前など何かが表面化してくるか気づいてみます。そしてあなたが感じていることに対してそれが妥当なものかどうかを試してみましょう。あなたの身体はあなたに情報を伝え(inform)、あなたを再形成している(re-form)のです。物事が上がってくる間、この過程とともに居続けてください。あなたの身体が、感情の中へと旅に連れていってくれるのが分かるでしょう。そして、感情と感じている状態に変化が出ているのに気づくでしょう。このエクササイズは、フォーカシングと呼ばれる、ユジーン ジェンドリンのカウンセリングの過程から派生したものです。

身体は今にしか存在しません。肉体の全ての信号は今であり、肉体全ての機能も今起こっており、今必要なものを肉体は取り入れ、今必要なものを吸収し、今必要でないものを手放します。そして身体は、それらの生命システム全てとの接触を保つための全体的な相互的信号システムを備えているのです。そうした現象の何らかひとつに随伴することができたなら、私たちはプレゼンスへの入り口を開き、過去への埋没から目を覚ますことが可能になります。身体の全てが、今ただそのままに存在する生命とひとつなのです。私たちのマインド・精神も同じように居続けられるものでしょうか。

痛みの変化:今の瞬間にある身体についていくことの次の例は、痛みについてです。内側にIssue 17 image 8.jpg入ってみて下さい。あなたの身体で経験している痛みを見つけてください。痛みの位置を特定し、痛みの形と質を感じましょう。鋭い痛みで円錐形をしているかもしれません。痛みが最も強いところ、その鋭さに気づきましょう。その鋭さに伴う質にも気づいてみます。温度、色、刺激、継続性などです。その痛みと、あなたが相互的に作用してみたらどうなるでしょうか。痛みへと呼吸を吸い込む、痛みを(呼吸で)膨らます、あなたの身体の内側から痛みに触れてみる、言葉で表現する、痛みの内側を感じてみる、外側を感じる、指でその部位のあたりに接触してとんとんと軽く叩いてみる(ソナーのように)、そして、どれくらい深いところでそのリズムを感じられるでしょうか。そうしたやり取りを実践する間に、不快感には何が起こっているでしょう。こうしたやり方で痛みがプレゼンスされる時、あなたは自分の身体とこれまでとは異なる関係性を築いていることが分かるはずです。あなたは、痛みそのものをプレゼンシングのための道具として用いることにより、あなたの痛みとの過去の関連性を解放しているのです。

もしもボディワーカーとして、私たち自身の生命感ある肉体の信号に付き添ったなら、クライエントにも同じような焦点の当て方と注意の向け方をしてあげられます。身体を中心とした認知的な意識を実践すればするほど、私たちのプレゼンスの能力はどんどん育っていきます。それぞれの人の目覚めの潜在性を感じ始めるようになります。それは、私たちが自分たち自身を分離しているという夢からの目覚めなのです。私たちの環境が新鮮で新しいものになります。人間関係はもっとオープンになり、愛溢れるものになります。そして人生への感謝で心が満たされます。私の経験では、全てのヒーリング・癒しの形態というのは、生命への参画と分離の思考と表現を終えることを含むものだと思えるのです。

こういう訳で、意図的に自分の内なる感覚を発展させ、いつであっても人生を学ぶ人となっていくヒーラー・プラクティショナが私の視野に入ってきます。そうした人々が、ヒーリングの生ける表現者となり、自ら選択・実践をする目覚めの行為者となるのです。全てのボディワーク形態がこの方法を用いることができます。なぜなら、ボディワークはタッチを含み、クライエントがソマティクス的に気づいている状態になれるよう手伝えるものだからです。ソマティクス的な認知意識を持つことで、プレゼンス=今の瞬間にあることが楽になってくるとわかるようになります。ソマティクス的に気づいた状態になることで、私たちは過去をゆるす(忘れる)状態へと到達できるようになります。過去を忘れることで、私たちの内にある永遠の存在とより親交を持つようになります。そのようにして、私たちの身体は、重荷を担ぐものからプレゼンスで家へと還るものへと変容できるのです。この目覚めは、分離の終焉です。生きとし生けるものは全て、私たちを永遠の存在へともたらしてくれる協力者なのです。その意味において、私たちは皆放蕩息子であり、家に暖かく迎えられようとしているところにいるのでしょう。
Issue 17 image 9.jpg

Presencing Newsletter Issue 16 仮面を外す:閉じた顔-開いた顔

Presencing Newsletter Issue 16
仮面を外す:閉じた顔-開いた顔

米国の偉大なる大統領エイブラハム リンカーンは、かつてこう言いました。中年期に差し掛かIssue 16 image 1ると、私たちの顔は開くか閉じるかになる、と。彼が気づいたのは、開いた顔を持つ人々は人生を大切にしているということでした。そうした人々は、様々な表情が可能です:愛、悲しみ、好奇心、敏感さ、そして思いやりなどです。

人生に不信感を抱く人々は、閉じた顔を持つことになります。閉じた顔というのは、表現が難しい顔と言えるでしょう。顔の筋肉が、慢性的な人生の状態に適応してしまっているのです。恐らくその人は、痛み、恐れ、怒り、不信感をたくさん抱えているのでしょう。怪我をして石膏のギプスをして固めるように、閉じた顔は感情的に防衛的になり得ます。開いた顔は表現力があり、映し返しができます。閉じた顔はしばしば、閉じこもり、防御的です。

Issue 16 image 2閉じた顔がその緊張状態を変えるには、何百という筋肉を使うことになり、それによってこれまでにない表情が可能になるのです。この閉じた顔は、フェイスリフトを受けた場合にも起こり得ます。若く見せるため、皺のある皮膚が選択的に強張らせられる…その結果、表情が制限されます。

ボトックス治療は、強張りが強すぎる筋肉をリラックスさせます。しかし、クライエントが自分で抑制された筋肉を活性させるのは困難となる可能性があります。これらの「若さの仮面」もまた、表現力を発揮することはあまりできません。ボディワーカーやエステティシャンは、こうして通常の組織反応を人工的に制御しているのを(手で)感じ取れます。私の経験では、人間のタッチとクライエントの感覚的な認知意識を用いることで、通常の休息状態での筋緊張にある自然な美しさと、開いた表現力の手助けができます。

顔は鏡です。開いた顔は、鏡として他の人たちを映し返してあげられる能力があります。このIssue 16 image 3鏡となることは、真の美しさの源泉です。エステティシャンの顔が「若さの仮面」という閉じた顔であるよりも、クライエントのための表現力ある鏡であることは重要です。自分の顔という鏡を磨き、防衛的な仮面の下に隠されているその人を精確に映し出してあげる必要があるのです。閉じた顔が恐れと痛みを表現し、その人の苦しみに思いやりを感じるとき、私たちの映し返しが防衛的な仮面を緩めるのに役立てるからです。

また、人が内側から顔の組織を的確に感じられるよう手助けをしたなら、その人は仮面が溶けて行くのを感じることになるでしょう。(そのために)働きかけることができる特定の筋肉群があります。最初の、そして最も重要な筋肉は、噛んだり噛み砕いたりするための筋肉です。中国の易の八掛に、「噛み貫く」というのがありますが、それは意志の力で大きな問題と取り組むという意味です。

閉じた顔の人は、人生の問題を噛み締めています。きっとその人は軽視されていると感じているのでしょう。もしかすると、自分が歳をとって魅力がないと感じているのかもしれません。あるいはたくさんの心配事を抱えているのかもしれません。感情を制御し、自分の行為を制限して噛み締めている人がいたら、他の顔の筋肉に強く影響を与えている、噛むための筋肉群を緩ませてあげることができます。

それでは、噛むための主な筋肉群にクライエントの自覚的な意識をもたらしていきましょう:Issue 16 image 4.jpgまず咬筋、翼突筋、そして側頭筋です。それから、首の特定の筋肉:舌下筋群、胸鎖乳突筋、射角筋群です。これらの筋群がリラックスすると、エステティシャンもボディワーカーも、施術がどれだけうまくいったかはその人の顔を見ればわかるでしょう。クライエントの自覚的な意識を用いると、これらの筋肉群は傷みや機械的な圧力、侵襲性のある注射などを用いずともリラックスできるのです。すると、クライエントは防衛的な仮面をという重荷を解放することになるでしょう。
セラピストの力を借りたりスキンケアのための準備をしたりする前に、これらの主な筋群の痛みや無感覚を解放するのは重要なことです。言葉と表情を用いて、私たちが仮面の下のその人をただ映し返してあげると、開いた表情と美しさを感じることに意識的になります。これは、身体の内側でとても良い感覚を生み出し、クライエントをリラックスさせ、筋肉と関節に感覚的な影響を創り出します。この主要な筋肉への働きかけをした後は、他の顔の筋肉は通常楽になります。

また、顎関節にもクライエントの認知的な意識をもたらす必要があります。この関節はしばしIssue 16 image 5ば、噛む筋肉の上で閂(かんぬき)のように固まってしまっていることがあります。ここに意識を持って行くことで、顔のみならず上半身にもリラックスした感覚が生まれます。そのため、上半身を通してさらに表現の自由を得られた感覚がするのです:それは腕、首、顔、肩、それから声にまでそうした感覚が生まれます。

年齢を重ねた人たちは、こうしたエステティクスのようなアプローチに大変よく反応します。高齢者は内側で美しさを感じ、それを外に表現したいと感じています。そうした方々に、どうかこの機会を与えてあげて下さい。その人たちが着けている重い仮面を手放す手助けをするだけには留まりません。その人たちは、人生により多くの感謝の念を覚えることに気づいていけるようになるでしょう。

「目の前にある美、後ろにある美、私の周りは美しさばかり…美しさの中に入らせて…私が最期の歌を歌うとき、ただ美を美しくあるままにさせておくれ。」
〜ネイティヴ アメリカンの祈り
Issue 16 image 6

 

 

 

ボディワークと瞑想 Presencing Issue #15

ボディワークと瞑想 – 心を開く

Issue 15 image 1共感の成長に適した職業ケアに携わる職業全ての中でも、ボディワークはクライエントの現実に最も近しくさせてくれるものです。責任という感覚をより強く抱くプラクティショナは、クライエントのある程度の苦痛を心で共感していることに気づきます。ボディワークのトレーニングコースや教科書は、治療に焦点を当てているため、そうした反応は横に追いやられたものになっています。そして(そうした側面を示すものとしては)逆転移のための解決法のみを示しています。つまり「あなたはクライエントからそれをもらっている;自分を守らなければならない;あなたが投影しているのだ;自分自身のために精神・心理療法を受ける必要がある」といった感じです。しかしながら、共有される苦痛という感覚は、心を開くことと共感の始まりともなり得ます。もしプラクティショナが、身体中心の瞑想やプレゼンシングのような何らかの内面の修練をして、自分の条件付けされた苦しみに取り組むことができたなら、苦しみを変質させられるでしょう。そしてそのことを通して他の人たちの苦しみを真に心で感じる共感をし始めるようになるでしょう。共感を能動的に実践する中で、私たちは相手の苦しみを背負うよりもむしろ、相手と結びつくことによって互いを変質させるのです。

苦しみを知る– 個人的な苦しみを他者のための思いやりへと変容させる:身体中心の瞑想を個々人が実践する中で、私たちはそれまでの苦しみの様々な出来事を経験します。私たちのエゴ(自我)がトレーニングしてきたマインドが、古い記憶、後悔、恐れ、恥、罪悪感と憤りが詰まった押入れになっていることに気づき始めるのです。私たちは、思考と感情と自分を同一Issue 15 image 2視しているので、そうした苦しみに継続的に左右され続けています。プレゼンシングを実践していくにつれ、思考と過去に条件付けされた感情との違いを識別し始めます。つまり、そうした感覚的な気づき・認知的な意識が瞬間的に現れるようになるのです。プレゼンシングを日常的に実践すると、精神的な考え込みから、心が中心になった感覚へと変化するのを感じるようになっていきます。私たちの感情が、自己中心的な出来事から利他主義の抱擁へと変容します。自分の苦しみを変容させることは、他の人々の苦しみを分かち合い、変容させることへの準備を整えるものになるのです。
仕事の時間が瞑想の時間になりうる– プレゼンスの共有日常的に身体中心の瞑想の実践を学Issue 15 image 3ぶと、自分自身を内側から外側へと変容させるようになります。自らの変容が進むうち、私たちの仕事がその変容の表現となっていきます。クライエントの身体に働きかける時、私たちは自分の手を通し、言葉を通し、共感を通して自分のプレゼンス(今・この瞬間)化された気づきを伝えることになるのです。私たちは、クェーカー派教義の意味で言う、「集う」空間を創っているのです:「私の名において二人あるいはそれ以上が集うところ、そこに私(内なるキリスト)はいる」。私たちは変容の潜在性を分かち合っているのです。私たちは、永遠の瞬間というプレゼンス(今の瞬間の存在)を分かち合っているのです。プレゼンスの兆しと贈り物が、セッションの環境の一部をなすようになり、神聖な空間を生み出します。私たちとクライエントがヒーリング・癒しの相互的な経験へと入って行くにつれ、この経験によって互いが利益を得ることになります。

直す・治すという態度:私たちを訪ねてくるクライエントの多くは、痛みやストレスからの何らかの軽減を求めてやって来ます。私たちは、クライエントのいつも通りの日常生活のための休憩所なのです。もし私たちのセッションもいつも通りになったなら、私たちのアプローチはほとんどが思考中心になり、条件付けされたマインドと呼ばれるものから作業することになります。数多くのボディワークの教科書やトレーニングは型を教えるもので、多岐にわたるクライエントの症状のための「直す・治す」お決まりの手順が示されています。救急医療のための規則よろしく、そうしたアプローチ法は、ボディワーカーは主に症状緩和に焦点を当てるよう勧めています。多くのクライエントは、純粋にそうした治療形態に興味を抱いています。それらの思考中心のアプローチは、解決されるべき問題を提示する目的物として肉体を見ています。また、通常クライエントも同じように考えています。そのため、肉体にある問題を直すことが主な目標となります。この目標が、二人の人間にある事前に条件付けされた態度からやって来ていることに気づいて下さい。つまり、肉体を直す・治すことがクライエントを直す・治すことと同等になっているのです。

無理矢理にでも心・ハートを開く:以下は、心を中心にした気づきについてのスピリチュアルな教えの例三つを示しています。心を開くために痛みをもって肉体に罰を与えることと、ボディワークで症状を直す・治すという態度が似通っていることに気づいてみましょう。エゴ(自我)のマインド中心の意識から、ハート中心の気づいた意識へと動いていくに従い、エゴは絶望的に思考と感情にしがみつきます。エゴは、過去の記憶と未来についての予感とで守られた、条件付けされたマインドの中心を占めています。自分の中に恐れと苦しみがあるなら、そこにはエゴが投資をしているだのと分かるのです。エゴを超えていく古来の方法は、多大な肉体的精神的苦しみを含むものでした。罪のあがないと肉体の浄化としての禁欲と処罰を求めるものだったのです。

シナイの聖グレゴリ(1265-1346AD):「…知性を屈服させ、頭から心・ハートへと送りなさIssue 15 image 4.jpgい。そしてそこに保ちなさい。頭は力尽くで下を向かせ、胸、肩、首は激しい痛みに苛まれる…神の王国は強制的に入らせられたのだから、自分にそれを強制する者たちは、その王国を我がものとしなさいなさい。」

道の上の光(作者不明1890年):「心の中の悪の根源を探し、抹消せよ。それは欲望からなる人間の心の中と同様に、忠実な弟子たちの心の中にも奔放に息づいている。強き者のみが悪を完全に殺せる。弱き者はその(悪の)成長、結実、死を待たねばならない。また、その(悪の)植物は何年という時を通して生き、繁殖する。その人が夥しい経験に自分自身を重ね合わせるとき、植物が花を開く。力の道へと入ろうと意図する者は、彼の心のこの(悪の)植物を引き離さねばならない。それから心・ハートは血を流し、その人の人生全体が完全に溶解するように思える。

クリエーションスピリチュアリティ(創造の精神):(マシュー フォックス1990年)「心が砕Issue 15 image 5ける時こそ、憐れみが始まりうる…憐れみはしばしば、心が砕かれたところから生まれるものであり、また完全なる人生を生きる人々は全て心が崩壊したのだ– 魂の暗闇の夜は、私たち皆にとって共通のものである…私たちは、他の人々の苦しみを相互的な自由の過程において背負うのだ。」

 

穏やかな心の開き方:私たち自身が、またはクライエントとともに今の瞬間の身体の経験へと入る実践をする時というのは、エゴ(自我)によって押し付けられている条件付けを取り消すことになります。エゴは、スピリチュアルな変換をそれ自身の評価内容で見ているため、何らかの罰を受けることと、罰を分け与えることを期待します。プレゼンシングのボディワークは、エゴの肉体についての理解を緩め、穏やかにハートを開いていきます。症状のコントロールから、思いやりを持って相手と共にいるところへと動いていくのです。

茶道と田植えの女性:寒い雨模様の日 – 車は、急坂の山峡の数多くのうねり道を進んで行きまIssue 15 image 6.jpgす;流れの速いせせらぎ;田んぼと谷間。私たちは茶道のお点前のためにやってきました…日本の優雅さと文化の縮図です。それは16世紀からの武士の茶道のための建物が、今日私たちを迎えてくれる方々の家の一部として建て直されたものでした。茶道の家元である女性は、武士の流派、石州流でお茶を点ててくれました。畳の一角の炭火で沸かされたお湯が鉄瓶に入っています。桃色の着物を着たお弟子さんが、桃色のお菓子を運びます。香り、畳、苦味のある抹茶、熱される鉄…私たちはお菓子とお茶をいただき、友人のスーザンが歌を歌い、それから若い男性が伝統的な禅の笛を吹きました。全てが首尾一貫しています。自然の音、風に吹かれる群葉、菓子、色彩、香り、温かく刺激ある抹茶。

全員の感覚が新鮮なまでに開き、私たちはまた車にぎゅう詰めになって狭く急な山道を登り、Issue 15 image 7お茶に使われる800年の歴史を持つ湧水の地へと向かいます。一方通行の橋を渡るときに、車が停まりました。私たちの少し前に、腰の曲がった高齢の女性が一輪車を押しているのです。彼女は、風を避けるため何重もの衣服をまとい、首巻きのついた帽子を被り、泥だらけの長靴に手袋をはめています。彼女はゆっくりと、大体十歩進むと休みます。礼儀正しく、私たちも動いては休むのを彼女のペースで繰り返します。十回ほど繰り返したところで、私たちは彼女を追い越して山を登り続けました。私は振り返りました。彼女は橋を渡り終えたところで一輪車の上に横になって休んでいました。

車はついに道を離れて駐車し、他の人々は車から飛び出して水源を探しに行きました。通訳のこいとと私は、あの女性を探しに行きました。私たちはなぜか彼女に惹かれたのです。まるで師に会いに行く巡礼のような…彼女と一輪車へと、胸の痛みによって惹きつけられるように。Issue 15 image 8.jpg彼女の方へ降りて行きながら、おそらく彼女が80歳を越えていることが分かりました。それは、彼女がもし車に向かって歩いていたとしたらはっきり見て取れたでしょう。こいとは丁寧に、私が写真をとっても差し支えないかどうかを訊いてくれました。お願いしたことには喜んでいる様子で、笑いながら着ているものを整えました。私が、顔に少し泥がついていますよ、と言うと、彼女は帽子と首巻きを取り、顔を拭って二枚目の写真のために笑顔を見せてくれました。彼女がこいとに話したのは、田んぼで作業をしていたものの、山がもう影を作り始めてしまったということでした。「もう寒くて風が強くて。今日はもうやりたくないね。」

私たちは丘の上にいる友人たちのところに戻り、彼女は家路へと着きました。冷たい湧き水を飲み、少しばかり歴史を聞いて、そして車に戻りました。下に降りて行ったとき、太陽に照らされるあの女性の姿が少しの間だけ見えました。さっきよりも急な坂道を少しだけ上がったとIssue 15 image 9ころにいました…十歩進んで、休んで。彼女の腰はあまりに折れ曲がっているので、辛うじて一輪車よりも少しだけ背が高い程度になっています。私はまた胸に強い痛みを覚え、彼女の大変な労働と苦しみの日々の営みを変えてあげたいと思いました…彼女がどれだけ尊く、いかに人間の魂の尊さを代弁しているかに気づいたのです!私の胸の痛みは暖かさへと変わり、感謝と満ち足りた感覚が生まれました。私は、慈悲心の花がいっぱいに開くのを感じました…茶道の優雅さとこの女性の尊さによって開いたのです。

ハートを開き、真のこころへと変化させる:私たちの仕事は、自然に心・ハートを開くところへと誘って行くものです…日本語で(真の意味で)「こころ」と呼ぶものは、私たちの気づいている意識の中心が志向のマインドから感じる心へと動いたことを意味します。この動きの主な証拠は、共感の感情が育つことです。共感は(英語では)字義通り、苦しみが共感されるという意味です。ある意味においては、私たちは他の人々の痛みを自分の胸で感じられるということなのです…他の人の人生経験を感じられるのです…他の人の苦しみの人生が、花を開く人生になる潜在性を感じられるのです。プレゼンスの状態になるときに私たちの心で起こるのは、他の人々の苦しみを穏やかに包み込み、私たちが進んでその人たちと一つになろうという気持ちを通してヒーリングへと入って行くことなのです。このひとつとなることは、私たちもクライエントも傷つけるものにはなり得ないのです。

タッチのユニークな側面 – パートIII

タッチのユニークな側面 – パートIII                            by Jack Blackburn

2010年の5月末、横浜にて、私はあるセミナーを行いました:「タッチのパワー」というボディワーカー、カウンセラー、エステティシャン、他の種類のケアに携わる人たち、そして一般向けのものでした。目的は、タッチの様々な側面、多様な身体の状態、色々な精神状態を示す他、タッチ・スキンシップの欠如の問題、そしてタッチがなぜ私たちの生活で重要なものかを伝えるためのものでした。私は職業的ボディワーカー、ヒーラー、講師、カウンセラーとして長年働いており、どの仕事においてもその人の認知意識・気づきと生活の質にタッチがどれだけ影響を与えるかに焦点が当てられています。以下は、一つ目と二つ目の記事の続きになります。私のほぼ三十年に亘る経験から、タッチのユニークな面についての考察を続けて行きましょう。これはシリーズの三番目にあたりますが、タッチで繋がる私の同僚の皆さん、友人たちに向けたものでもあります。

症状は身体の注意喚起の方法

私たちの肉体は、眠っている時でさえ継続的に私たちにコミュケーションをしています。夢はIssue 14 image 1肉体的な刺激感覚に伴われており、そのために現実的に思えるのです。映画や演劇を観たり音楽を聴いたりする時、肉体は継続的に情報のフィードバックをくれるので、それが経験を記憶に残るものにするのです。そうした出来事を思い出すだけでも、身体から感覚が呼び起こされます。症状は概して、変化を求める肉体的な信号です。恐らく身体は、位置を変えたり、何かを食べたり、体を掻く、鼻をかむといった行動を喚起するに十分なだけの不快感を生み出しているのでしょう。それらの症状は、私たちが反応できないことにならない限り、概して無害なものです。もし反応できないと、症状が本当の苦しみを引き起こす可能性が出てきます。

私たちの習慣としては、和らげることができない症状は取り去ろうとします。そうした症状を感じるままにはしておきたくないので、なんらかの緩和を求め続けるのです。

肉体にある刺激感覚に付き添うことでプレゼンス(今の瞬間)になり、意識的に目覚めていく

肉体にあらわれる感覚/刺激にさらに追随することにより、私たちの身体の内側で何かが変化Issue 14 image 2し始めます。私たちはプレゼンスを経験し始めるのです。つまり、永遠なる認知意識という状態で顕現する一瞬一瞬を経験し始めるのです。全て、過去も現在も、この永遠なる瞬間の一部なのです。このという気づきが育つと、数多くのこと、特に恐れていることを異なる観点へと持って行ってくれるようです。

私たちの慢性的な問題は、を避けるために自ら作り出した手段であることに気づき始めます。この永遠なる瞬間においては、連続性しかありません。断絶はないのです。肉体が、目覚めの旅の乗り物となるのです。肉体は、私たちがというデータを集める必要性がある限りにおいて存在してくれる、一時的なものです。よく注意を払ってみると、肉体はにしか存在しないと分かります。そのようにして、束の間の暗在性が永遠の明示性へと導いてくれるのです。

症状を消し去る時– 身体のメッセージを消し去る
Issue 14 image 3エステティクスも含め、数多くのタッチの手技があります。私たちが欲さない症状を長時間にわたって楽にする、あるいは消し去りさえするものもあります。例えば、クライエントにとって恥ずかしく感じている目の痙攣を、エステティシャンがなくすことができるかもしれません。ボディワークにおける大きな利点の多くは、疲れあるいは時に痛みといった副作用を生み出さないことです。

ソマティクスの実践者は、また別の疑問を呈します。そこにある症状は、単に肉体的病理を示しているのか、それとも私たちの内なる過程へとより深く入らせてくれるものなのだろうか、と。神経の痙攣は、もしかすると心配や疑念があるがために起こっているのかもしれません。

ソマティクス的な認知意識(身体を内側から意識的に感じること)に随行していくなら、私たちが、新たな洞察、自分たちについての理解、そして、私たちがいかに人生を導いているのかといったことにオープンになれるのが分かります。恐らく、不快感を覚える症状のための手早い解決法を求めていくことは、全身全霊で人生に参与する機会を逃すものになるのかもしれません。

症状についていくことで、マインドはよりオープンに、認知的になるある種の瞑想、ボディワーク、心理・精神療法では、肉体の内側に入り、症状に随伴することを学びます。そして何が明らかになるのかをみていくのです。忍耐強く、そうした感覚的メッセージとともに居続けて、そこに症状がある理由にすぐさま答えを探そうとしないようにするのです。エステティシャンの場合は、その神経の痙攣がある部位に軽く触れたり穏やかなタッピングを施したりするかもしれません。経験を積んだソマティクスの実践者は、感覚の領域に入っていけるよう相手に付き添い、二人が共に進んでいく、内なる旅路の方向を与えてくれる症状について学ぶことになるかもしれません。そうしていくことで、私たちが全体性と自己完結へと進んでいくようになると信じる人々もいます。

Issue 14 image 4道しるべこうして、症状が意味することへの評価を変えていくことになるのです。馴染みのない土地の自然の中でハイキングをしたことがある人は誰しも、道しるべの価値を理解しています。神経の痙攣を取り除く代わりにそれを探っていくことで、エステティシャンはクライエントのための洞察へと導かれるようになるのです。よくあることですが、症状は洞察がやってくる時に消え去ります。道しるべの価値を知らない人々は、しばしばそれらを消したり壊したりするものです。私たちが道から外れないようにしてくれる目印の価値を理解していないからです。また私たちは、それと同じことを自分に、また人に対しても人生の中で幾度となくしてきています。私たちの症状に対する態度の枠組みを再構築することに認識が行くと、相手の人たちひとりひとりの自己発見の旅の同伴者になることが容易くなるのです。

Issue 14 image 5症状が直接無意識へと連れていってくれる可能性:身体から生まれる感覚や刺激によく注意を払うことを学ぶ時、症状のある部位には初めに認識したよりも実際多様な感覚刺激があると気づきます。事実、症状と長く居続けるほどに、感情的な内容、過去の記憶と恐れ、ヴィジョン、夢等々との繋がりを感じ始めるのです。神経の痙攣に取り組んでいたエステティシャンなら、クライエントの目の端に涙が浮かび、身体には不随意的な震えが起こっている事に気づくかもしれません。

症状に伴う感覚刺激が、過去からの多種多様な解決されていない問題へと入って行く通路となるのかもしれません。感覚刺激とともに居続ける事で、そうした過去の経験や未来の恐れを映画のように見えるかもしれません。その過程とともにあると、無意識の内容があらわれ続けるようです…まるでその中にある何かがこの動きを推進しているように。恐れやその他のことでいっぱいになっていた症状が、どんどん減って行くようです。時に、この過程は純粋なプレゼンスの経験を導き、そこで全ての思考と感情がいつの間にかなくなります。このまさに歓びに溢れるプレゼンスの経験は、瞑想家が悟りと呼ぶものなのです。

プレゼンスになると、私たちの外側と内側の現実が変化する

プレゼンスの経験は、身体を通してのみ起こり得るものかもしれません。なぜなら、それは感覚される経験だからです。思考は、それ自体ではプレゼンスを生み出すことはできません。デカルトのような数多くの優れた思想家は、長年に亘って肉体から自らを切り離そうと努力しました。それで純粋な思考から生まれる宇宙を構築しようと試みたのです。

Issue 14 image 6現代の物理学や脳の研究の時代においては今や、身体、肉体のみが、全ての創造性と直に繋がる内なる叡智を感じ取れる感覚機能を備えたものであることが理解されています。ということは、私たちの人生経験は、内側から現れる叡智をより反映するものになって行くのです。圧倒的な畏怖をもって、私たちは、創造と永遠の生成における参画者としての自分の役割を認識し始めるのです。

 

プレゼンスの状態になる時、自らの生命感覚(生命力)を感じる

永遠なる瞬間で生きることの副産物の一つは、自分自身と他の人たちの生命感覚にさらに、より多く気づけるようになるということです。この生命感覚は、私たちが身体の内側で感覚する間、永遠に展開しています。そして、生命感覚は決して去ることはないという気づきとともに、その感覚がやってきます。つまり、創造の生命感と相互作用している感覚を感じ始められるのです。このやりとりは、私たちに継続性の保証を与えてくれるものです。そして、何度も何度も再生産される肉体が、その証拠を与えてくれます。またそれは変化し続ける展開からなる静寂へ、内へと引き寄せてくれるのです。永遠にこの瞬間であるへと。

クライエントとプラクティショナがソマティクス的に相互作用する時– 両者が変容する

Issue 14 image 7タッチの分かち合い、認知意識の共有、今を分かち合うことは、クライエントとプラクティショナ両者を目覚めの状態へともたらします。セラピーは、創造主ではなく私たちが作り上げた問題に働きかけるということではもはやなくなります。今それは、分かち合われる目覚めの旅路となったのです。プレゼンスの分かち合いがさらに急激に、より多くのプレゼンスを生み出します。両者がこのやり取りで変化を遂げ、そして二人ともが、一人では決して起ることのないヒーリングへと向かっていくのです。この分かち合いは、真の変容となる経験を生み出します。私たちは自らを分離し、孤独を分かち合おうと分離された他人を求めながら生きて来ています。今や、防衛する仲間も、分離を介した安全性も、作り出す必要はもはやないのです。

 

 

Presencing Issue #13-b スーパーヴィジョンに向けて:スーパーヴィジョンの道

PresencingIssue 13 b- スーパーヴィジョンに向けて:スーパーヴィジョンの道  
(c) 2010 Jack Blackburn

Issue 13b image 1_Supervision

 

 

 我-爾(われ-なんじ)の関係性においては、人類は存在の統一性をもつものと違いを認めるも
のとなる。
-爾の関係性で人類は、互いを特質からなるもの、あるいは孤立した質からなるものとも知覚しないが、互いの全一なる存在を含む対話の中で引き付け合うものとなる。一方、我-それの関係性においては、人類は違いを特定のものの集まりとみなし、独立する質とし、物から成る世界の一部として自分たちを眺める-爾は相互的かつ互恵的であり、いっぽうの我-それは分離と断絶の関係性である。
マルティン ブーバー Martin Buber 
explained ~angelfire.com

私のプレゼンシング ニューズレターでは、数多くの号でボディワーカー、クライエント、そして共同体に影響する多くの論点を取り扱ってきています。クライエントが意識的な感覚への気づきを育てる手助けをするという目的をもって、クライエントの身体から直に派生する問題も扱ってきました。こうした記事を書くことも、これまでのクラスをお教えすることも、その時々に私が受けてきた様々な形でのスーパーヴィジョンなしではまず不可能であることをここで認めましょう。

Issue 13b image 2_Counsellingここで少し背景をお話ししましょう。詳しくは私のウェブサイトでご覧になれます。(米国サイト)大学院に入ると、様々な形でのスーパーヴィジョンが要求されることになると言われ、私はぎょっとしました!13aで引用したボディワーカーの方のように、企業主義のアメリカには決して戻るまいと決意していたのですから。つまり、誰かに何をすべきかを言われるようなことはもうごめんだと思っていたのです。

そこで分かったのは、大学院で求められたスーパーヴィジョンは私が思ったものとは全く異なるものであるということでした。一緒に取り組んでくれたスーパーヴァイザーたちは、クライエントとの仕事で直面するジレンマの多くを手助けしてくれ、自分の目標を自分で打ちたてて到達できるよう挑戦を与えてくれ、初めて自分のインナーライフ(内面の生活)を分かち合う経験を始める手助けをしてくれ、幼少時の問題の多くに取り組んでいけるようにもしてくれ、さらに身体-中心、クライエント中心、という私の実践、スピリチュアル ディレクション(精神性の方向性を手助けすること)とボディワークの定義付けを手助けしてくれたのです。つまり、彼らは私が自分自身を知ることを手助けしてくれたのです。

16年たっても、私はそうした分かち合いからまだ引き出せることがあり、そのひとつとしては、同じスーパーヴァイザーとまだセッションをして取り組んでいます。疑問の余地なく、そうしたセッションが私の人生を全く変えたと言えます。私は、とにかく可能な限りそれぞれのスーパーヴァイザーに支えてもらい、自分でできると思っていたよりも遥かに超えた到達をすることになったのです。

職業的ボディワーカーは今、スーパーヴィジョンが必須となる未来に直面しています。適切な監督・監査ないまま、ボディワーカーがトレーニングよりも深いところへと入っていき、「実践の範囲」を超えて進んでいくのはどうかと懸念するマッサージ評議員もいるかもしれません。ボディワーク共同体の中には、スーパーヴィジョンをする真の理由というのは、スーパーヴァイザー(監督・監査役)がなんらかのアドヴァイスや導きをもたらし得るという考えから賛成をする人もいるかもしれません。これらのようなスーパーヴィジョンに協力的な見解には、スーパーヴィジョンがプラクティショナにとって魅力的な働きがあり、彼らの成長を力づけるものでなくてはならないという点が見落とされています。

Issue 13b image3_Black_Butterfly

私の倫理のクラスでは、仲間同士でのスーパーヴィジョンの概念の導入をしてきています。そうすればプラクティショナは、自分の実践の中での倫理的なジレンマ(板挟み)やその他の職業的な懸念について話し合うための仲間同士のグループを形成できるからです。仲間同士でのスーパーヴィジョンの中核となるプロセスは、偏見を伴う反応をせずに耳を傾けることであって、アドヴァイスをすることではありません。仲間同士で互いのスーパーヴァイザーとなる、というのは、互いのために互いが存在しあう友人・同業者であり、傾聴をし証人となることを互いに与え合い、支え合うものなのです。
Issue 13b image4_gathering

“存在へと入って耳を傾ける”というのは、スピリチュアル ディレクション(精神性の成長を促すためのカウンセリング)から拝借したフレーズですが、私たちが真に相手に耳を傾けるということであり、また私たち自身が自分自身の内なる真実に耳を傾けられるようになる、という意味です。私がスーパーヴィジョンを教える中では、静寂の傾聴のプロセス、それは肯定や否定を伴う反応をせずに耳を傾けるのですが、その傾聴を通してグループまたは個々人にスーパーヴィジョンのやり方をお教えします。
質問をするといった単純なことでさえも、アドヴァイスをすることや是認または否認などを与える形態をとることになり得ます。ですから、静寂の傾聴を練習するというのが第一ステップとして重要です。静寂の傾聴により、スーパーヴァイザーの訓練者は、自分自身のマインドのお喋りを聞くことにもなります…静寂を実践するまでは。それはメタ思考と呼ばれるものです。私たちが他の人々ではなく、いかに自分にばかり耳を貸しているかに気づかぬままでいるのが分かります。静寂の傾聴、無思考の状態であるプレゼンスの兆しの一つに心地よさを感じるようになるまでには、かなりの時間を要する可能性があります。

 

職業として、私たちボディワーカーはお互いにそうした類のサポートを与えあうことができます。私たちの仕事は、おそらく全てのケアを与える職業の中で最も親密なものでしょう。何年にも亘ってクライエントに付き添う間、私たちはクライエントが自分の身体との関係性を変化させていくことを見つめていきます。クライエントの生命力の精密機器である身体を、私たちは肯定的な方法でケアすることに取り組んでいるのです。クライエントとともに十分な時間旅をして行くと、彼らが単に肉体であるよりも、スピリチュアルな存在へと向かって移行していくのを目にすることになるかもしれません。私たちが変化するにつれ、私たちの身体も変化し、私たちがすることも変わります。友人や同僚が自分の証人になってくれるというのは大変大きな助けとなります。そうした変化を自分の中に認識するとき、スーパーヴァイズの関係性というものが、これまでに手にしていた関係性の中で最も深遠なものであることを認識するのようになるのです。
Issue 13b image5_Peer_Supervision

PresencingIssue 12 – 直す・治すことの側面

「人に一匹の魚を与えたなら、その人は1日生きられる。
漁の仕方を教えたなら、一生涯の糧を与えたことになる」作者不明

Issue 12 image 1クライエント自身の癒しにおけるクライエントの役割とは何か  ボディワークにおいて、数多くのクライエントは症状緩和のために私たちを訪ねて来ます。私たちが成功すればクライエントは大変喜んでくれる、それは分かっています。もし成功しなかったら、恐らくそのクライエントに会うことはもうない、それも分かっています。数多くのセッションをしていくと、症状緩和は、真実との一時的な関係性だと理解し始めるようになります。症状は、人の人生の全期間に亘って出て来たりなくなったりします。症状は、心地よい生活に対する病理学的な妨害に向かうものである、そのように私たちは自分を条件付けて考えています。私たちは、症状によって引き起こされる不快感や制限を扱わずに済む方を好むものなのでしょう。

他の要因:ボディワーカーは、クライエントのライフスタイルに症状を悪化させる他のパター
ンがあり、またクライエントは戻ってくると確信し始めるようになります。多分クライエントの生活状況や職業が大変ストレスの多いものなのでしょう。もしかするとクライエントは、自分で制御できない中毒的な慣習があると認めているかもしれません。例えばうつ状態であったり、パニック症候群に苦しんでいる、などです。そうした他の要因に関して、プラクティショナがクライエントを手助けしてあげられることは何かあるのでしょうか。ポジティヴな方法で、症状にじかに影響できることは?クライエントの身体と健康との関係をより豊かにしていくことにクライエントが参加できるよう、プラクティショナができることはないのでしょうか。このより豊かな関係性は、クライエントの身体にある資源に直接繋がり、人生に健やかさと情熱を保てるものとなりうるのでしょうか。

Issue 12 image 2症状への異なる感覚:症状への理解を変えることができたなら、人生を精一杯生きるための新たな入り口を開けるかもしれません。症状を、注意を惹くための呼び声だと見做してはどうでしょうか。症状を取り去ろうと努めるかわりに、クライエントとプラクティショナ両方が症状に注意を向けるのはどうでしょう。呼び声とそれに対する応えのように。クライエントとプラクティショナが、身体の内側と外側から様々な方法で症状とやり取りをしてみたなら、どうなるのでしょうか。プラクティショナとクライエント二人の注意がひとつになり、症状の反応を生み出せるとしたらどうでしょう。症状が反応する間、二人は注意を向け続けることになります。症状によって定められた癒しの道に沿って、二人で歩んでいると気づくことになったら何が起こってくるのでしょう。症状が連れて行ってくれるところへと随行していく方法は様々です。触知、身体に触れる刺激、症状へと入って感じられる感覚、プレゼンシングを通して症状と繋がる、症状の変化に伴い言葉で表現し洞察が与えられ、両者に新たな肉体の気づきが訪れる…など。プラクティショナとクライエントは、多種多様な方法で症状を試してみることができます。そうすれば、どこかに消え去ることなく継続的な情報の流れを生み出せます。それにより、道しるべを見失うことなくヒーリングに向かう道を二人で辿り続けることができるのです。

 

プレゼンシングが差し出してくれるもの:何らかのより深いところにあるものと繋がる目的をIssue 12 image 3持って症状を利用するという可能性は、これまでと違うように人生を生き始めることと同じくらい心を惹きつける何かがあります。つい最近、あるワークショップにいらしたがん患者の方に私は言いました。あなたは幸運なのですよ。あなたの内側に目覚めを生み出しうる継続的な信号を手にしているのですから、と。彼女は二日間、自分の症状をプレゼンシングしていました。二日目に、私は彼女の症状にいかに付き添うかをデモンストレーションしました。私は私の手と言葉を用いて、プレゼンシングで彼女に付き添うことができました。彼女の身体の表面に大変大きな腫瘍がある事実にかかわらず、身体で起こった過程によって彼女は大変前向きになり、真の肯定感を得られた(裏切られたのではない)と感じることになりました。ワークショップを終えて帰る時、彼女は輝いていました。全身が赤みを帯び、痛みはなく、そして何より重要なのは、彼女は人生の新たな意味と目的を見つけた事でした。症状は、彼女自身の生命感へと彼女を招き入れたのです。症状が、彼女を目覚めるよう呼び声をかけていたのです。そのセッションから、奇妙な認識が生まれました。彼女が自分の生命感に目覚めることは、症状から解放されるよりもより重要なことなのだ、と。彼女は言ったのです。「私、もう怖くありません。」

Issue 12 image 4呼び声:上の話は、症状が病理学的なものであるという態度を機械的にとらない場合に起こり得る一つの例です。どのような種類のボディワークをしているとしても、クライエントの症状が注意を惹くための呼び声であると見なすことはできます。そうすることで、症状を楽にすることへの私たちの理解を広げられるようになります。症状に向き合って内側に入り、症状が注意を惹こうと呼んでいるのだと認めたなら、私たちはきっとクライエントが自分のヒーリングの経験に入れるようにできるのではないでしょうか。(こうした方法で)症状は緩和するでしょうが、症状を完全に消し去るところには焦っていかないようにしましょう。道しるべが取り去られてしまったら、道はどこにあるのでしょうか。これは、その人自身の人生に変化を起こす必要があるクライエントには特に重要です。こうすることで、自分の症状をまた自分で作ってしまうことをしなくなるのです。

熟練の修理・治療:ボディワークの技術を発展させ、洗練したものにしていると、不快感を抱Issue 12 image 5える殆どのクライエントを効果的に扱うことができますが、そこにクライエントの認知的な意識という付加的な道具を加えることも可能です。この道具により、私たちの効果と満足が何倍にも増強されることでしょう。注意を払いつつ、症状を導きとして取り組む際、その人個人の細やかさへとクライエントが入っていけるようにしたならどうでしょうか。もしも若いクライエントなら、(セッションで)症状と関わる過程を一生涯覚えていることになるかもしれません。ずっと先の未来に、加齢あるいは深刻な病からの症状が進んだ時、若き日のプレゼンシングを直感的に維持しているがゆえに、人生の旅路のその地点で起こってくる恐れが軽減するかもしれません。もしかすると、継続的なヒーリングに向かう道しるべとしての症状についていくことを学ぶことになるかもしれません。高齢のクライエントの場合、人生の旅路の最後の段階をヒーリングへと向かう動きにしていくよう、私たちはサポートできるのです。こうしたやり方で私たちはクライエントに満たされた感覚を得てもらい、それと同時にクライエントが自分自身のヒーリングへと向かっていく過程についていくことも教えられるのです。

最近のケース スタディ:例として、日本のクライエントでこういう方がいらっしゃいました。彼女はストレスを感じると、左半身全体にかけて神経性の震えが出るというのです。セッションの初めの頃はその症状を呈していました。恐らく、セッションに緊張していたからでしょう。通訳を通して、私は彼女に、内側から感じて震えがどのようなものなのかを言葉で表してもらうようにしました。それから私は、彼女が震えを誘発するところと説明した部位に手を置きました。彼女に私の手の接触を内側から感じて、誘発している刺激感覚を感じるよう伝えました。彼女がそうしてくれた時、私は筋肉の痙攣に温かさと柔らかさを感じられました。それから私は、痙攣を意識的に作り出すことができるかどうか、彼女にやってみて欲しいと頼みました。彼女はできたのです!彼女は、自分にその能力があると分かり、全身がリラックスしました。これで彼女は自分の症状と直接実験できる道具を手にしたのです。その後、彼女を紹介してくれたボディワーカーから連絡があり、彼女の症状ははっきり軽減し、また彼女のストレスに対する恐れの反応も大きく後退したとのことでした

ものの見方を変える:恐らく今私たちは、直・治す 対 直・治さないという疑問全体を超えたIssue 12 image 6何かへと向かおうとしているのでしょう。症状についての見方を変化させ、長年にわたる経験を生かし、私たちの取り組みに新鮮なアプローチ法を共に発見していくようになるのかもしれません。このアプローチを深めることについては、三つの原理があるようです:肉体は、生命についての感覚へと私たちをもたらしてくれる道具であること;症状は、訂正よりも注意を惹くための呼び声であること;クライエントは、ヒーリングと全体性へと向かって症状と随伴することにおいて能動的で力強い役割を果たせること。ここから私たちはどこへ向かっていくのでしょうか。もしもこうした要素の考察を価値あるものと考えるなら、おそらくは症状について分かっていることを精査するところから出発できるはずです。