恐れることは何もない Newsletter #5

プレゼンシング ニューズレター #5 2007年2月

 恐れることは何もない

laughingBuddha

 公案

掲題の引用句は、人類の歴史を通して語られ、また何度も語られ続けてきたものです。この言葉を耳にすると、いつでも私たちは衝撃を受けます。なぜなら、私たちの通常の受け取り方からすると、これは全く意味をなさないからです。つまるところここには、恐れや疑いが私たちを安全にし続けていると感じる経験について、何かを教えてくれる叡智があるのではないでしょうか。私たちは、開いた心や全信頼をもつことを、軽率さや未成熟さ、さらには精神的な病とさえ結びつけて考えています。私にとって「恐れることは何もない」という言明は、公案という新しい考え方の可能性に開いていく、禅の精神的な謎解きなのです。人間の苦しみや愛への渇望というレベルにおいては、これは意味をなさないどころか何につけてもこれが真であると確証して欲しいとさえ願うようなものででしょう。しかし、これが物理的な現実のレベルだと、不誠実で自己欺瞞的なように思えます。ですが恐らくそれは、身体を中心にした機能、つまり物理的な脅威から自らを動かすものと、不適切に自分たちを極限状態に置く精神的に生み出される強迫観念とを、同一のものであると私たちがみなしているがゆえにそのように考えるのではないでしょうか。 私たちは、互いを恐れあっています。人間同士互いを恐れ合うに十分なことを学んできているのです。マインドのレベルでの、こうした恐れに満ちた反応というのは、私たちの思考と物理的な行動のパターンづけをするシナプスを形成します。例えば、小さな子供たちが様々な人種で遊んでいたなら、その子供たちは見掛けの違いになど殆ど気にしないことになるでしょう。彼らは、他の人々の身体的な質を自分にも見ているからです。こうしたことから、相違に関する恐れのシナプスというのは、生まれつきではなく恐らくは学習によるものなのでしょう。

病理学
身体そのものは、恐れに執着するようにプログラミングされてはいません。しかし、物理レベルにおける、恐れを基にした制限を保持するための精神的なプログラミングがなされています。身体とともに働きかけをする人々の見地からすると、そうした恐れを基にしたパターンを取り除くのはとても難しいものに思えるでしょう。ボディワーカーや身体を中心にケアをする人々が燃え尽きてしまう理由の一つは、恐れを根幹としたマインドによって保持されている抵抗のパターンを、物理的な圧を用いて圧倒しようとするところにあります。私たちは適切に、症状を拘縮としてつきとめ、指圧からトリガーポイント、深部筋マッサージや構造的統合に至るまで、そうした拘縮とそれに伴う痛みと制限を解放するための様々な手法を、工夫を凝らして見つけてきました。しかしながら、私たちが究極的に発見したのは、クライエントの精神的な不安がある限り、症状のパターンがまた戻って来る、あるいは身体の他の部位に症状が戻ってくるということだったのです。

忠実な僕としての身体
そうであっても、ソマティクスを基盤としたボディワーカーは、クライエントの自覚的な意識を拘縮している部位へと促すことにより、殆ど瞬時に症状の緩和ができることを発見しました。それも、プラクティショナにとっては肉体的な努力は殆どないくらいです。一体ここでは何が起こっているのでしょう。私の考えとしては、プラクティショナとクライエントの間に相互的に参加することを通した信頼というつながりが生まれ、症状と苦しみ両方を作りだした恐れを解放する方へと進んでいく、ということなのだと思うのです。身体というのは、内在的に次のようにできているようです:マインドが信頼するまたは愛するときには;身体は手放すことで反応をする。マインドが不信を持つあるいは恐れるときには;身体は拘縮を維持する、と。マインドと身体は継続的に、そして円環的に互いを反映し合っているのです – 思考、感情、そし肉体的な反応は、お互いを助長し合うのです。恐れは、身体とマインドに交感神経優位の拘縮を生み出す – どちらもその能力を縮めることになるのです。

光を減じる
buckhnmorning4
一年のこの時期(註:冬季)、地球は全て収縮する方へと向かっていきます。太陽は遠ざかり、寒さと暗さが取り囲み、物理的な生命力は消え去るあるいは地中へと後退します。人間は、生命維持を続けられるよう、十分なだけの蓄えに頼る時期になります。私たちの思考と行動全ての根本は、恐れと収縮の状態となります。私たちは、光と豊富さでそうした恐れを静めることを学んできました。しかし、人間が貯蔵庫を訪れるときには、いつであっても不足するのではないかという恐れが生まれます。私たちは、店で互いの分を得るときには、他(の人々)を凌ぐくらいの量を、そしておそらくそれよりもより多くを手にしようとします。表面では人と幸せに、仲良く見せていますが、内側では恐れを抱き、人を信頼していないのです。

このような時期は、副交感神経反応へと身体とマインドが向かうボディワークを、静かなる確信として受けるのに最適です。地球は休息し、生まれ変わりを待っているときです…そして私たちの身体も私たちに同じ状態を映し出してくれています。痛みが歓びへと、恐れが愛へと変革するのです。ディキンソンのクリスマス キャロルの戯曲のように、貧困/欠乏という恐れから自分自身を引き離す必要があります。『1914年ドイツと英国間のクリスマス休戦』の実話のように、差異の捉え方から生み出される恐れから身を退くことは可能なのです。そして、愛情を持って直接作用するボディワークは、こうした恐れの反応を用いて、個人的にも集合的にも形成してきた病理学的なシナプスを終焉させる手助けができる可能性があるのです。私たちの恐れに満ちた焚き火を維持するには、大変な努力とエネルギーを要します。用心深さと安全性という誤解に基づいた感覚を維持するため、私たちは集合的に、終わることなき恐れのメッセージを消費し続けなければならなくなっているのです。すると個人的には、個人の自由と創造性を失うようになるのです。しかし、私たちの恐れを維持することでのもっとも大きな損害は、愛と喜びを失うということでしょう。

小鳥たちの教え
数日前、シアトルは大変な暴風と雨嵐に見舞われました。その嵐の猛威に先立って、暗闇は増し、雲の層が厚くなり、寒気が流れ込んで水平に雨が降りました。私は外に出て、クライエントが現れるのを待っていました。自然がいかに凝縮していくのかを、私は観察していました…目に見える緑などほとんどないくらいに暗くなっています。嵐による被害の可能性と、どの家も灯りと暖、食料を備蓄するよう注意を促しているのをラジオでも耳にしていました。ふと、私の前にある木にたくさんの蠢きがあるのに気づきましたが、その木には緑の細い枝が垂直に、命を失ったかのごとく垂れ下がっていました。そこには鳥が、小鳥たちが小枝から小枝へと移り飛び回り、羽をぱたぱたとばたつかせ、互いに素早く動き回りつつ木の幹や木の葉から何かを啄んでいます。小鳥たちは何か急いでいるようには見えず、嵐からの避難所を探しているようにも見えません。まるで雨から逃れて家に帰りたいとも思わない子供たちのように、遊んで跳ね回っている感じです。私たちは自分たちの恐れを動物たちに投影し、動物たち自身の知恵や、動物たちが信頼、愛、そしてよろこびを襲えてくれる師となる可能性を捨て去ってしまっていることに気づきました。

その瞬間、私たちが自らの恐れに満ちた宣伝活動に埋もれ、身体で生きる真の喜びからこれほどまでにも遠ざかり、さまよっていることに私は気づいたのです。楽しんでいないのは、私たちだけです。創造物の中で、生命という贈り物に感謝するのをずっと忘れているのは、間違いなく私たちです。物理的な安全性に埋没するあまり、私たちは自分の身体は完全性と充足に欠けていると思い込んできてしまったのです。

哲学者の石
「恐れることはなにもない。」それが本当ならどうでしょうか。私のニューズレターの中心主題に戻りましょう:プレゼンシングです。身体に直に働きかけるという恩恵に浴している私たちは、私たちの人間性を蝕む、恐れという伝染病を覆す手助けができます。三つの基本的な仮定が助けとなるでしょう:身体はいかなる時も嘘をつかない;身体は今の瞬間にしか存在しない;身体は取り入れ、吸収し、そして手放すよう設計されている、という三つです。これらの基本的な見地から、私たちはクライエントを勧誘できます。ちょうど小鳥たちのように、今している経験へと入るようにするのです。それによって、クライエントが信頼と愛の感覚を育むのを助けるのです。恐れと孤独ではなく。間違っていることを直すより、私たちが自分でするように、クライエントが自分の身体に耳を傾けられるよう手助けするのです。それにより、クライエントも私たちも、努力の不必要さ、完全性と一瞬一瞬に注がれる感謝を感じ始めるのです。そしてついに、身体に耳を傾けることで私たちは生命に耳を傾けることを学びます。それはいつであっても、一瞬ごとにそれ自身が新たに生まれ変わっているものです。またそれと時を同じくして、私たちに完遂できることがあります。境界線を呼び寄せることを学んでいた恐れという瀬戸際が、相互理解と赦しへと溶解していくのです。身体を中心としたセラピストたち、またそれを学ぶ生徒たちは、生命の真の錬金術を学び、伝え始めることができます。つまり、冷たい灰色の、収縮した重苦しい恐れを基にした安全性の導きから、私たちの本来の輝かしさである、黄金の愛情と喜びを基にした豊かさへと変えてゆくのです。この談話を終える、最後の原理は以下です:恐れとプレゼンスは共存できないのです。

プレゼンシングによって私たちの居所を見つける
Martin-Buber
「それは、信頼についてのより深い側面を理解し始めたすぐ後のことだった。こうした信頼というのは意志をもって始まるのではなく、進んでする気持ちから始まるのだ。私たちの旅が紐解かれていくのを助けてくれる、内なる声に耳を傾け始める。私たちの運命から現れ出てくるものへの私たちの信頼が、こうした種類の信頼に横たわる構成要素なのだ。’委ねる状態…この瞬間に自分たちが出逢う必要があることが何であれ、自分たちの運命が手にできると分かっているという状態だ。この時点で、私たちは関係性を未来と置換する。この信頼の状態でことを進めていると、宇宙がその姿をあらわす中での必要不可欠な一部に、自分たちを見るのだ。」マルティン ブーバー『われと汝』

パーソナル プレゼンシング – エクササイズ18 : 今…今…今…

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全ての瞬間がです。時間の中では瞬間はその刹那ですが、は永遠です。あなたはこの瞬間に呼びいれられ、その度ごとにという言葉を耳にし、口にするのです。このエクササイズは、ナウ(今)イング:いまにする(これはつまり「ノウ(知る)イング」?)、つまり、今の瞬間にし続けて1日を過ごす、目覚めの一日の前哨戦です。瞑想して目を瞑りましょう – 身体の内側のスキャンから始めます。身体の中に入るたび、その身体の部位に「今」と言ってみます。あなたが感じる、どの(知覚)感覚もです。なぜならその感覚は今にしか存在しないからです。スキャンをし終えたら、身体の特定の部位に焦点を当ててもいいでしょう。その身体部位に焦点を当てるときに、呼吸とを合わせてみるのもいいでしょう。「今」という言葉を言いながら、その身体の部位に呼吸を吸い込むのです。「今」という言葉を言うたびに、その言葉の影響を感じるままにしてみます。その言葉の効果は、暑い日の水しぶきや、穏やかな目覚めのキスをおでこにしてもらうような感じです。その経験そのものが、そのものを伝えてくれます。一回一回のが、永遠への入り口なのです。その経験は累積します。練習すればするほど、あなたは時間を仲介物とは感じなくなり、流れにより気づけるようになります。そしてプレゼンスの兆しにより気づけるようになります:静寂、生死、平穏、そして圧倒的な愛。あなたの最も深遠なともだちが、あなたに近づいてきます – あなた自身も、近づいていくのです。

フォーカシングとプレゼンシング パート II Newsletter #4

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フォーカシングとプレゼンシングパート II  プレゼンシング ニューズレター #4

プレゼンシング エクササイズ
相手に耳を傾ける間のプレゼンシング

「それから(当時)私が何をするにせよ、癒しが起こるばかりだった。その時、ただ私がそこにいることが解放させ、助けていたのだ…。私がリラックスでき、私という先天的な核に近づいていられる時…またはそうした瞬間瞬間に…まるで私の内なる魂が相手の内なる魂に達して触れたかのように。」カール ロジャース、「クライエント中心、人中心、セラピーのアプローチ」1986

相手に耳を傾けている時のプレゼンシング:おそらく、自分の中でプレゼンスの状態でいるのが最も難しいのは、他の人と話している時ではないでしょうか。特に、それが仕事に関わる人や配偶者、あるいは過去に喧嘩をした人の場合は難しいものです。通常は、自分一人でプレゼンシングを実践する練習が重要になります。そうすれば、あなたのコントロールをしようとする思考が、人との会話に作戦を持ち込もうとしないで済むからです。

会話をしている最中、マインドがプレゼンスの状態に居られるようにするには、いくつかの方法があります。まず、身体をチェックし、まさに今感じている(刺激)感覚に気づくことです。自分の身体の様々な部位を内側から感じていくうちに、相手の人の表情や、言葉によらない身体の信号により多く気づけるようになっているのが分かるでしょう。

「私は本当にこの人に耳を傾けているのか、それとも自分を聞いているのだろうか」と、自らに問いかけてみましょう。主に自分自身に耳を傾けていることがわかったら、相手が言っていることを、思いやりを持ってもう一度言ってもらえないかきいてみましょう。腕時計を見たり遠くを見つめたり、退屈や苛立ちといった言葉にならない合図を出して相手を遮らないようにして下さい。相手が言っていたことに一区切りついたようであれば、返答する前にプレゼンスで間をおきます。相手の人が一通り話したと確認できるまで、言葉を発しないで静かに聞くのです。静けさの中で耳を傾けることに慣れましょう。それがプレゼンスの兆しだからです。慣れていくほどに、より心地よくなっていきます。

もしも相手がいっていることがそれでもはっきりしない場合は、明確にするための質問をします。たとえば「…と言ったのですか、それとも私が間違えて聞いてしまったのでしょうか」というように。自分の身体の内側のフェルトセンスからあなたの言葉がやってくるに任せてみましょう。がっかりするようなことにはなりません。全ての会話が、プレゼンスの中から育まれる機会なのだと考えてみて下さい。そこから生まれることとその贈り物がやってくると、どのような会話の内容よりも、その世界が遥かに重要なものになります。真に耳を傾けることで、相手とともにその瞬間にあることを、自分で学べるようになるのです。

なぜフォーカシングとプレゼンスなのか

私たちの身体は生きています…身体は、私たちの知覚という五つの鍵穴の向こうに孤独に潜んでいるわけではないのです。状況への身体感覚がなければ、私たちは自分がどこにいるのか、あるいは何をしているのかもわからないでしょう。
ユージーン ジェンドリン
Man and World(人と世界) 1992

フォーカシング:身体中心のプレゼンシングと類似したアプローチ法です。心理学者であり哲学者でもあるユージーン ジェンドリンは、クライエントが心理学的なパターンを超えて成長するのを手助けできる一つの方法は、クライエント自身が自分の内なる環境に耳を傾ける方法を教えることだと発見しました。彼は、この傾聴の効果をフェルト センスと名付けました。クライエントが、自分のフェルト センスに耳を傾けられると、通常の精神的また感情的な反応よりもさらに深い所からの反応が表面化するように思えたのです。クライエントが自分のフェルト センスをチェックし、それについて好奇心を持てるよう助けてもらうと、この内面での傾聴は治療的なブレイクスルーを生み出しうるのです。傾聴と身体のデータを冷静に観察することで、クライエントは、身体が洞察と新たな理解へと到達させてくれていると気づくようになり得るのです。

セルフ-プレゼンシング、セルフ-フォーカシング:フォーカシングが、プレゼンシングの一つの形態であることには私も同意します。フォーカシングでもプレゼンシングでも、もっとも難しい分野の一つはセルフ-プレゼンシングまたはセルフ-フォーカシングです。自分自身を見つめるときというのは、いとも簡単に気が散るものだからです!個人的な歴史や個人の嗜好よりも、内側に到達できたならより多くのことが得られます。セルフ-プレゼンシングにしっかり入ることができた時、一つの入り口地点としてこの継続的な瞬間を構築します – 空間と時間の中では、プレゼンシングが私たちを全ての創造物と繋げてくれるのです。カール ユングは、私たちの意識のマインドは宇宙のマインドとの直接的な繋がりであると述べているのです!セルフ-プレゼンシングは、自己中心的であることと同じではありません。自己中心的というのは、通常の思考と身体的な反応のパターンに埋没している状態です。それらは判断と自己疑念、幻想や無原則な思考も含んでいるかもしれません。またそれらはしばしば罪悪感、恥、恐れを含んでいます。

より深く:プレゼンシングは、そうしたパターンを扱う方法であり、私たちを異なるレヴェルの理解へともたらしてくれるものです。マインドで何が起こっていようとも、プレゼンスで居続けられるようにしてくれる何らかの実践をすることはできるのです。一定のものとしてプレゼンスを定着させたなら、気づいている意識の中核が、もっと深まる方へと変化します。身体は、それは今の瞬間にしか存在しないものですが、私たちの試金石となってくれます。セルフ-プレゼンシングによって、私たちはよき聞き手となり、自分自身の観察者となるのです。そして、聞いている内容で相手を判断したり修正したりすることなしに、相手の話に耳を傾けられるようになります。

身体-中心:いかなる時も、身体の内側で起こっている全身の現象が数多く存在します。私たちは、身体の内なる信号システムを通し、そうした感覚を観察するのを学べるのです。また、私たちは自分の思考と、知覚に伴う感覚を追い続けることもできるのです。私たちは、まるで新たな動物の種を観察してノートをとるかのように、好奇心を持って自分自身の内なる環境を観察できるのです。これらの観察は、練習とともに研ぎ澄まされていく注意力の訓練を要します。

フェルト-センス:その瞬間にある、というフェルトセンスの機能は、その人自身の真実への入り口を開きます。身体というものは、感じることと(刺激に反応するなどの)感覚という純粋な言語をもって常に交流してくれているものであることに意識的に気づくようになります。話し言葉のように、身体の感覚の言語は様々な語彙を持ちます。感覚、反射、色、臭い、言葉、そして画像などです。この言語がより意識的になり、言葉によって表現されると、身体中心のコミュニケイションが、慣習的な思考パターンや身体的な緊張から私たちを引き離してくれる方に向かっているのが分かるようになるのです。

フェルト-シフト:最も重要なこととして、慣習的な思考や反応のパターンを取り消す、あるいは解放するときに、この緩みが身体で、副交感神経優位の反応へ向かう心地よさとして感じられ得ることです。それは、温かさ、リラックスの感覚、柔らかさや固着していたものの解放などです。そして、タッチを用いているプラクティショナは、クライエントの身体で起こっていることとしてこれらの変化を感じ取れるのです。ジェンドリンは、こうした身体的な経験を以下のように呼びました。フェルトシフトです。それはマインドの変化または洞察の適正さの確認として身体的に伴うものです。新たな言語を学ぶように、自分のフェルトセンスとフェルトシフトを、特に信頼を持って自分で行いながら実践の腕前を磨いていくわけです。

プレゼンスとフォーカシング:私がこの記事で述べたいのは、フォーカシングを行っている人により、フォーカシングが自覚状態としてのプレゼンスを獲得できるものにするのは何なのか、ということなのです。セラピストが、クライエントにフォーカスの仕方を教えるとき、セラピーが精神、感情、肉体あるいはスピリチュアルなものいずれであるにしろ、そのプロセス(過程)によってクライエントはより深く自己理解と内なる導きの大変力強い源泉へと開けるようになるのです。この源泉というのは、ジェンドリンが内在的と名付けたものですが、私はこれを深い自己原初的マインド、あるいは存在と比較して考えてみようと思います。なぜなら、身体の内的環境がこれほどまでにプロセスの中で鍵となる役割を果たしており、身体でのフェルトセンスはその一瞬間のみに起こるのですから、身体を中心とした全ての手法は身体-マインドあるいはソマティクス的な意識へとクライエントが開いてゆける完璧な機会を与えるものだからです。私は、この気づいている意識のレヴェル、つまり真のクライエント中心のヒーリングのレヴェルを信頼しているのです。

すべてをひとつに-ボディワーク フォーカシング グループ(BFG)

BFGの始まり:コスタリカの美しいプンタレナスで2004年、国際フォーカシング会議において身体志向(をめざす)プラクティショナたちのグループが集いました。私たちは会議前会議を行い、国際会議中は休み時間や食事時間にもお互い集まって話し合いました。波しぶき、爽やかな海風、イグアナや南国の花々とココナツの木々という美しい環境のもと、私たちはボディワーク、ムーヴメント(動き)、フォーカシングとダイアド(二方向の)タッチ、そしてグループでのフォーカシングを、新たな真実が生まれ出るままに実践しました。コスタ リカ、アルゼンチン、パナマ、スイス、日本、イタリア、米国、英国、そしてベルギーから集まった仲間たちです。男女は同人数で、年齢幅は30歳から88歳となりました。メンバー全員がフォーカシング経験者です。何か新しいものが生まれてきている、その強い感覚がそれぞれの中で感じられていたようでした。私たちは、ここでの経験を他の人たちにも届けられるような、未来におけるプレゼンテーション(発表)や学会の可能性さえ感じ取っていました。

身体:これらの分野と職業全てが共通して抱えているものがある。それは具現化された居住者のことである、つまり居住人と外の世界の間で伝達する手段としての身体、居住人のマインドの投影と実験をするものとしての身体、居住人の外に向けての表現をするものとしての身体、外の世界の受信機としての身体、そして居住人の精神の家としての身体、である。

指示的ではない探求:私たちを結びつける二つの基本的現象があります。職業的なタッチと運動療法はいかにフォーカシングのプロセスに作用するか、またその逆はどうなのか。二つ目は、身体とフォーカシングの間の関係性とはなにか、ということです。職業として触れることをしない人には陳腐なものに思えるかもしれませんが、日常的に触れる私たちのような人々にとっては大変意義ある考察です。ここでの中心は、身体での(気づいている・自覚している)意識のための諸技術と、フォーカシングでの指示性をもたない大変力強い原理との再統合にあります。私たちは、グループでのプロセスから特定の真実が現れてきたのを感じられました。それはともすると、フォーカシングが理解され、実践され、教えられる方法への大きな暗示があるのかもしれないものでした。

内在性の発現:職業的なフォーカサー(フォーカシング実践者)は皆、クライエントのプロセスをサポートするにあたり、言葉を用いたセラピーでの穏やかかつ指示的ではない方法でクライエントの随伴者となることを学びます。アプローチ法はかなり多岐にわたることになるかもしれませんが、それらは全ての中核にはある信念があります。それは幾度も証明されてきたことですが、クライエントの中に内在的な全体性があらわれようとする、というものなのです。プロセスが感情的、心理学的、スピリチュアル、物理的あるいはそれらの幾つかが組み合わされて表面化しているにせよ、その内在的な全体性がプロセスの真の建築者なのです。

ソーマ(身体):基本的に、フォーカシングは心理学の分野で発展しました。心理学はいつであっても、医学との繋がりを維持しています。フォーカシングでの身体の見方として、身体が有用な目的物であるという概念化をするよう傾向もあり得るのです – 有用、つまり身体が思考、経験、感覚を大変純粋な、汚されていない方法で繋いでくれるからです。しかしながら、フォーカシングはまだ身体的な瞑想経験の真正な学びとはしっかり結合してはおらず、特に自覚している意識で満たされているソーマあるいは身体という概念とは結びついていないといえます。身体を中心とした職業は、マインドと身体の現象的な繋がりをより実体感あるものとして理解するところにきているようであり、またクライエントを内在性と繋げる直接的な方法でもあるのです!

ボディワーク フォーカシング グループへのご招待:コスタ リカでの2004年の会議の終わりに、ボディワーク フォーカシング グループの参加者たちは自分たちの国際会議を開く必要があるのではと考えました。2007年まで自分たちで独自のアプローチを発展させ続け、お互いにこの感覚を生かし続けて次のフォーカシングの国際会議に臨もうということになりました。来年がその集まる年になります。イタリア人のメンバーが、ナポリ湾にあるイスキア島でその会議をしたらどうかと提案してくれました。ローマ人たちはここを休暇の場として利用していましたが、たくさんの温泉があるところでもあります。イスキア島から東を眺めるとヴェスヴィウス火山が見え、ポンペイとヘルクラネウムがあります… (以下、本文は2007年ボディワーク フォーカシングの案内となるため省略します)

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*ボディワーク フォーカシングの次の会議は、2017年開催を検討しています。開催地は現在メキシコが候補にあがっています。詳細はウェブサイトなどで随時お知らせしていきます。どうぞお楽しみに!