フォーカシングとプレゼンシング パート I Newsletter #3

 

フォーカシングとプレゼンシングパート I

DMMTemplate

今回のテーマ: 今回は完成に時間がかかりました。二回に分けてお届けすることにします。パート I は、フォーカシング、プレゼンシング、そしてテーブル トーキングのクラスを発展させるに至ったその他のアプローチ法についてお話をします。

プレゼンシングをみるところから始めましょう。言葉を用いた、プレゼンシングのための古典的な方法があります。小乗仏教の僧侶たちは、身体を使ってなされる行為やその感覚を、実行(感覚)しつつ心のうちに名付けをすることで通常の作業を行いながら、瞑想を継続します。この実践は、ネーミング(名付け)と呼ばれます。ネーミングによって、瞑想家たちは今の瞬間にしか起こらない現象に焦点を当てることを学ぶのです。少なくともマインド(精神)の一部分は今の瞬間にいられるのがこの効果となります。これによって、考えたり強迫的に喋り続けたりするマインドの一部を沈める効果が得られます。治療的な関係性のなかでも、私たちはこの同じ技法を適応することができるのです。

フォーカシングは、カール ロジャースの弟子で心理学者哲学者でもあるユージーン ジェンドリンが発展させた技術であり、クライエントにネーミングと似た効果を生み出せるものとなりました。トマス ハナによって著されたソマティクスは、クライエントの身体のそれぞれの部位での感覚的な(気づいている)意識を増大すことにより、意識の成長を生み出す重要な過程を具体化します。マルティン ブーバーは、『我と汝(I and Thou)』の中で、ふたりの個の間で互いに汝となる(プレゼンシング)ことが起こる今の瞬間の出会いの場が作られることについて述べています。
私にとって、プレゼンシングの概念は、こうしたアプローチ何れにも共通する要素です。テーブルトーキングのクラスはこうしたアプローチ全てを組み合わせ、クライエントがセルフ-プレゼンシング(自分で行うプレゼンシング)を通して自己ヒーリングを経験できるよう、ケアをする人々が言葉でのやり取りの力を用いられるようにするものなのです。

パートIの最後では、マーガレット ジャコビー ロペス(Margaret Jacoby Lopez)の、Sing Past Winter(過ぎ去った冬を歌え)を考察してみましょう。ああしたセルフ-プレゼンシング(自分で行うプレゼンシング)を通して、想像力が解き放たれる例を示してくれるものです。

ゼロの発見プレゼンスの発見

数学におけるゼロのように、プレゼンスの「何もない(no-thing-ness)」ということを定義するのは容易ではありません。ゼロのように、プレゼンスには客観的な現実性もないように思えます。また、私たちが理解する治療的な関係性を変える術がプレゼンスを用いることにあるようには見えもしないでしょう。プレゼンスは、ゼロのように、測定可能な現実性を伴わないプレースホルダー(訳注:数の十進法表記で有効数字としての0)なのです。 ゼロは、概念的にまったく新たな次元へと私たちを連れて行ってくれるだけのものだ、とあなたは言うかもしれません。ゼロは無を表し、外国(アラビア、インド、中国)の文化から輸入されたものなので、魔術の秘密形態と見なされ、極めて堅固に抵抗されたのです。ゼロと同じように、プレゼンスはまったく物質的なものは表しませんが、意識のまさに新たなレヴェルを示唆しています。例えば、深遠なる静寂、静止、空と無-思考などといったものが、私たちの現実への感覚全体を変化させうるのです。そのプレゼンスの贈り物は、あたかも無から生み出されたもののようです。そして、すべての苦しみを楽にし、すべての病を癒し、中毒や慣習的な行動から解放してくれ、さらに私たちを新たなる世界へと目覚めさせてくれるのです!ゼロの発見はわかりにくいものですが、恐らくは太古のものでしょう。またそれはそれまでとは異なる無形の理解だったために、秘密裏に伝えられたのでしょう。ゼロの概念が最終的に受け入られたことで、数学を永遠に変化させることになりました。プレゼンスの実践は、恐らくゼロの秘密よりもさらに古いものでしょうが、しかしその原理を自ら進んで学び、まったく違ったところ、つまり好奇心と謎というところから人生を見てみようとする人々にしか通常伝えられなかったのではないでしょうか。プレゼンスの実践は、きっと全てのスピリチュアルな伝統の核心に存在していたはずです。浄化、祈り、禁欲といった全てのステップを引き継いだ者…ブッダや砂漠のイエスのように、プレゼンスへ、全ての最も深い謎へと到達する人々…あるいは時に、浄化も祈りも禁欲もすること全くなく、瞬間、そして継続的な永遠であるへと自らを合わせようとする人々。

フォーカシング、ソマティクスと自己主権:ボディワーカーのためのブレイクスルーとなるのか?

実践の範囲:何年にもわたり私は、セッションで起こる、変化の状態へと向かっていけるようなボディワークのアプローチを探し求めてきました。ほとんどのマッサージのトレーニング過程では、生徒たちの教育の中でこの部分を避けています。それは、(こうした状態は)マッサージというリラクゼーションの副産物であると(マッサージ教育者たちが)見做してきたからです。プラクティショナは、クライエントのサポートをすることは教えられますが、こうしたクライエントの通常ではない意識状態を鼓舞することはしないのです。なぜなら、そうしたことがプラクティショナを「実践範囲外」へと連れて行ってしまいかねないからです。

変化の状態:私が教えるクラスやスーパーヴィジョンのほとんどで、ある程度頻繁に起こる状況としてこれらの状態が報告され、皆さんが訝しがります。「こうした状況が起こった時、私はどうしたらいいのでしょう」と。今回のプレゼンシング ニューズレターでのマーガレット ジャコビーの本の書評では、身体的な症状という治療を遥かに超えたところへと私たちを連れて行ってくれた過程を通し、私たちが進んでクライエントと共に存在した場合、何が起こるのかを示すものとなってくれています。

フォーカシングとソマティクス:クライエント達が経験するスピリチュアルな始まりといったものは、私が以前に学んだものとは異なるサポートをするに値するものだ、そう私は認識するに至ったため、大学院でスピリチュアル ディレクターになるためのトレーニングを受けました。大学院在学中には、クライエント自身の真実が自然に生まれ出てくるのを促す、クライエント中心の手法としてのフォーカシングに出会うことになりました。その時点では、私は既にソマティクスを基盤としたボディワーク、特にトマス ハナによって示されたものが(私が目指すものと)同じ方向性として目指せるものではないかと分かったところでした。フォーカシングは、クライエントがいつであっても主権者であると強調することで、プラクティショナが過程を読み違えてしまう罠を避けているように思えました。のちに、もう一つのフォーカシングの指導指針が私に大きなインパクトを与えました。それは、プラクティショナはセルフ-フォーカシングの実践を学び、他の人からのフォーカシングのセッションを定期的に受ける、というものでした。それにより、クライエントが自分自身の意識的な気づきへと開いていくことに同伴するには、ずっと適切な位置にプラクティショナ自身がいられるようになるのです。

スーパーヴィジョン:私は大学院で、クライエントの過程をサポートするために発展させていた言葉でのやり取りについて、実際のクライエントとのセッションを実験材料としてよいという許可を得ました。私は数多くのケーススタディを書き出し、スーパーヴィジョンに持って行きました。スーパーヴィジョンのおかげで、私は自分の洞察と直感を用いて「クライエントを誘導している」ことに気づきました。このフィードバックは大変有用なものとなりました。私はこのことで、クライエントの過程を横取りしてしまうようなことにきちんと気をつけられるようになったのです。そしてクライエント自身の観察をより信頼する方法を学んでいきました。「専門家」たるよりも、よりよい聞き手になるということに重きを置くようになり始めたのです。マルティン ブーバーを読んだ時、セラピーの関係性の中で起こる「出会い」が神聖なものであることを認識しました。つまりそれは、両者が聖なる仲介者へと開いていくからなのです。

自己権威:トマス ハナを読んだ時、私は、クライエントがソマティクス的に気づいた意識を持てるよう手助けしたいととても強く感じていることが分かりました。ハナがそこで触れていないのは、ソマティクス的な経験を通して起こりうる、神聖さへと開いていくことについてでした。神聖さへと開いてくことが可能となる時、クライエントの人生全体がよりよいほうへと変化しうるものだと私は分かりました。のちに私は、このことを自己創造、または自己権威と名付けました。プレゼンスの状態になる人は、その人自身の人生に意識的に権威を持つようになるということなのです。それは、すべての経験、過去、現在、そして未来全てにおいてです。非難や被害者意識のエネルギーが、自立心へと変容するのです。自己権威/主権を受け入れることで、プレゼンシングが内なる経験と外の経験とを繋げてくれます。両経験は互いを映し合い、それはクライエントの諸経験がその人自身の創造性の力となっていくのです。 

テーブルトーキング クラス

ジャック、このクラスとクラス内容の持つ効果にお祝いを述べたいと思います。私は長年、「マッサージテーブルでのワークの間の静けさ」というほとんどのトレー二ングの形式(やり方)が好きではなかったし、様々な方法で言葉でのコンタクトをとれるよう生徒たちに勧めてきたからです。沈黙が責任回避になることがあまりに多すぎます。話し続けて下さい。」

ディーン ジュハン、Job’s Body(ヨブの身体)の著者、20067月

テーブル トーキングのクラスは、私たちとクライエントとの経験とフォーカシングの多くの原理、ハナのソマティクス、プレゼンシング、アクティヴ リスニング(能動的傾聴)、そして変化した意識状態を取り巻く倫理的な諸基準について扱います。手法としては、ボディ スキャニング、呼吸と内側でのタッチを通したクライエントの相互作用、プラクティショナのナレーションと感覚できる刺激、クライエントの名付け、フォーカシングのようにソマティクス的な経験のための内的な語彙の発展過程、そしてフォーカシングでのフェルト-シフトのような身体-マインドの気づいている意識での変化などを用います。

言葉:以下は、ワシントン州AMTAのために書いた記事の抜粋です。それはプラクティショナが、言葉でのやり取りをもってクライエントに正当に(合法的に)付き添うことができるようになるのを意図したものです。それから私は、同僚であるシンシア プライス博士と共にテーブル トーキングと呼ばれるコースを発展させました。彼女は、身体に触れられた時に解離状態になる女性たちを言葉でサポートする研究をしていました。シンシアの研究レポートは、ボディワーク アンド ムーヴメント セラピー(ボディワークと運動療法 英語版のみ)という雑誌でお読みになれます。私たちは、プラクティショナが付加的に学べるよう、お教えしたい言葉でのサポートを細心の注意をもって段階的に構築しました。起こること全てがソマティクス的に確認できるよう、プラクティショナとクライエント間で身体を中心とした対話であり続けるような手法を作りたい、そう私たちは願っていました。

テーブル トーキング:言葉でのやり取り ボディワークに欠けたパズルピース
言葉は、プラクティショナとクライエントをひとつにする友人ともなりうるものである。私たちの言葉とクライエントの言葉は、タッチを通して起こるやり取りを、更に意識的なものにできるのだ。言葉が、組織の障壁を迂回する伝達者となり得るのである。言葉は、身体から起こってくる感覚の同伴者になれる。言葉は、身体の中深くに埋められた情報を取り戻すことができる。言葉は、クライエントが耳を傾けられるようにする感覚の状態を引き出せる。言葉は、身体の言語を通訳するのを助ける写本となり得る。言葉は、気づいている意識が育つ時に起こる変化に色彩を与えられる。言葉は、痛みと恐れの場における安心感とサポートになり得る。そして言葉は、お互いにセッションの道を見極める道標ともなるのだ。

この論文の中核を成す主張は、身体的な反応と直に関係する言語作用が固着しているパターンを解放することと、それがクライエントの教育において不可欠ことにある。ボディワーカーは経験上、身体が嘘をつかないことを知っている。また、言葉を用いるセラピストのほとんどが、身体で感じられる経験には根差さないコミュニケイションに依拠していることも私たちが知るところである。身体の感覚というのは、心地よいものでない限りは不快で苦痛なものとみなされる。ほとんどの人々がセッションに、身体についての物語を携えてやって来るものだ。感じることを学び、身体の感覚に耳を傾けることを学ぶと、私たちは感情、思考、そして感じることと感覚、さらに洞察と関わる経験と出会うようになるのである。
クライエントが、身体が自分を裏切ったのでもなければ身体が罪悪感や恐れの源泉でもないと発見するとき、そのクライエントの同伴者となることは、私たちの役割の一つである。事実、身体は私たち一人ひとりにとってよき忠実なる僕(しもべ)なのだ – 身体は、私たちが内面で扱っていることをまさにそのまま映し出してくれるのだ。身体は、並外れた伝達者なのである。愛を感じたなら、身体は、痛みが伴うようなときでも素晴らしい感覚の信号を送ってくる。恐れや怒り、罪悪感を感じるなら、私たちの身体は不快な感覚としてそうした感情を映し出すのだ。ボディワーカーとして、私たちは自分の手と知識ある経験を通し、身体の言語に常に耳を傾けているのである。

私たちが働きかけている身体の部位で、していることと手で感じることを、評価を伴わない言語で叙述する言語活動を行うとき、クライエントの身体に関する意識が育つひとつの段階が生まれてくる。身体の言語の導きは、私たちが焦点を当てている部位に、クライエントの意識的な感覚の気づきを引き出す。つまり、身体的な意識的な気づきという大変重要な部分が目覚めるのだ。また、私たちが(クライエントの身体に)置いていた手を離したときには、クライエントにワーク(施術、共に行ってきたこと)の影響を感じ取り、その身体部位を内から経験するよう言葉で伝えてみてもいい。クライエントがその身体部位のフェルトセンスをもったなら、シンボルや意味などがあがってくるだろう。もしかすると、視覚的あるいは聴覚的な経験も生まれてくるかもしれない。ある身体部位が意識的に探求されると、通常クライエントはその部位で、痛みとは異なる感覚を感じていることに自ら気づくようになる。そうした際に発せられる言葉を、プラクティショナが鏡のように返してあげると、クライエントが感じていることを叙述するのを、さらに洗練していく手助けができるようになるのだ。
テーブル トーキングからの抜粋 (米国ウェブサイトに記事全編を掲載)©Jack Blackburn, 2003

マーガレット ジャコビー ロペス著 Sing Past Winter (過ぎた冬を歌う)書評

content
丘の大地を黄昏が覆い
夜へと帰った梟の羽撃き、それがこれから始まる。

暗闇はあたかも草叢から現れたかのように
ちょうど木々の上での出会いに空から降りてくる

この全ての瞬間すべて音もなく…耳を澄ましなさい

Sing Past Winterより, M. Lopez

前回の「プレゼンシング」は、私が「ヴァージニア」と名付けた女性の慢性的な痛みについてのケーススタディを含むものでした。彼女の正体を明かしましょう。マーガレット ジャコビー ロペスが、今号で彼女の書評を書くことを許可してくれたからです。彼女と一緒に行ったワークについて、もう少しお話をするところから書評を始めましょう。マーガレットとは、約3年間にわたって共にセッションを行いました。その間、私はボディワークとスピリチュアルカウンセリング両方を彼女に行いました。私たちは、彼女が身体で感じることに言及できるようにする方法を、毎回発見することになりました。彼女の手術によるトラウマが起こるまで、マーガレットはシアトルで成功をおさめている芸術家でした。ケーススタディで示したように、マーガレットは自分の痛みをプレゼンスする方法を-様々なやり方で-学びました。彼女の痛みと経験により、セラピーの過程が圧倒されそうになったことも何度かありました。

彼女の本の書評と彼女とのワークの背景をこうしてさらにお伝えする理由は、読者の方々と同僚の皆さんが、マーガレットの進んでしようとする意思と彼女の身体の経験を使おうという勇気、特に痛みを彼女自身の魂へと入ろうとしたことを通して驚くべき深遠さに到達したことを理解されるであろうと考えたからです。プレゼンシングをしている間、彼女は異次元へと入って移動するなど、いくつもの驚きに値する出来事を経験しました。彼女はそうした経験の間に、自分は決して孤独ではないと認識したのです。彼女は心の中で知らずこう言っていました。「神は痛みの代わりに贈り物をくれたのだわ」と。彼女は、自分の内側で詩が聞こえ始めたので、聞こえたものを書き留めるようになりました。言葉の深みと新鮮さ、その概念は彼女を驚かせました。彼女は、セッションの始めにそれらの詩を私に読んで聞かせてくれました。それらはあまりに深遠だったので、私は彼女が、彼女の内なる教師に耳を傾けているに違いないと認識しました。マーガレットは事実、それ以前に詩を書いたことがないのを私は知っていました。

一連の詩の始めの部分は、儀式と秘蹟の隠された謎を訪ねるものです。マーガレットはキリスト教聖公会の教えで育ち、彼女の父親はオーストラリアの有名な牧師でした。これらの大変個人的な詩は、彼女に新たなメッセージを伝えているように思えます。彼女は、キリスト教の秘儀を教えられていたのです。言葉と文章は、彼女がそれまでに聞いたことなどないものでした。それらの多くの概念は、アルケミスト(錬金術士)たちの記したものと大変似ているものだと私は彼女に伝えました。彼女はそれから程なく、それらの概念との共鳴を強く感じるようになりました。

ちょうどその頃、最後の時を迎えようとしていた父親の元に行くため、マーガレットはオーストラリアへと向かいました。その間も彼女の詩は続いており、錬金術とのつながりにより意識的になっていました。彼女は、有名なユング派のセラピスト、マリア フォン フランツによる錬金術の本についての本の中で印刷された、自分のインク画の一つを思い出しました。20年間で初めて、マーガレットはその本を開きました。そして彼女は、彼女の絵の数ページ前にある有名な16世紀の錬金術士ジェイコブ ボームのなしたことと、彼女の描いたものとの間にとても強い結びつきがあることを発見したのです!彼女の父親が他界した後、こうした新発見などもあったため、マーガレットは休養と探求のための時間をとりました。その時もそれまでのように、彼女は自分の痛みが数多くの内なる扉を開く入り口であることを意識していました。その間、彼女の詩が変化し始めました。全く新しい詩作が生まれ出て、絵画にも新しいアプローチが生まれ、この新しい詩を表現するかに見える錬金術的な過程が現れたのです。

Sing Past Winter は、大変創造的なワークの後の時期から育ったものです。この本の言語は「受肉的」です。それは私の意味するところとして、身体に関連することすべてがスピリチュアルな対話であるということです。身体部位や分泌液を通して神について語るのを、弁解するつもりはありません。善悪を学んだことのない裸の子供のように、これらの歌には恥など存在しないのです。そして私たちは、このことを喜んでいいのかもしれません。なぜなら、これらの歌は私たち自身の身体の純粋さ、私たち自身の裸の好奇心、身体の愛と喜びの発見、そして私たちの魂の肉体的な存在を表現しているからです。彼女のプレゼンシングの言葉で、私たちのためにマーガレットが身体に語らせてくれています。こうした身体の歌は、身体の賛美歌であり、オープンで野性味に溢れています。あるものは懇願的で、あるものは感謝にあふれ、痛々しい格闘もあれば法悦的な愛と降伏の歌もあります。長年にわたって身体とワークをしてきている私たちには、こうした歌の数々が、聖なる(肉体という)器を通して生じている生命があるところとしての身体を復活させるのを確認するものとなるでしょう。その器は聖なるものであり、私たちが入り込んで経験し、表現し、この地球上での生命から離れる時には手放すものなのです。

その時人間という入り口を通して私は入り 

過去を引き抜く 私の身体の呼吸 その笛が奏でる。
私の脳細胞を超えて 知を切り離す。私は私の中にいなかった。
私の視界をまったく超えたところに
開かれた展望。

私の影が光に塗り込まれる
私の裸体は備え付けられて。
私の幼少時代の震え、私の情熱の赤い弓、
椋の木の蜂蜜 たっぷりと ほっとさせてくれる、
私の両手の器は記憶でいっぱい
私は誰?

From: Sing Past Winter, M. Lopez
肉体は、この本全編を通し、彼女の芸術作品によって、また彼女の肉体瞑想の言葉で晒け出され、祝福されています。肉体は実際聖なる器なのです。肉体の生命感というものを、私たちは気にかけなかったり、傲慢にも感謝どころか恥と感じたりするものですが、この本では聖なる愛を通して肉体が復活を遂げているのです。マーガレットは、私たちの純真を無花果の葉で覆い隠す代わりに、身体にかわって言葉を紡いでいます。私たちの愛を隠す必要もなければ、見せかけの犠牲を通して忠実を証明する必要もないのです。人生と愛は、互いに犠牲となっています。それはまるで身体が語っているかのようです:「神を知りたいのなら、私の中に入りなさい。あまりに長い間、あなたは見当違いのところで探し続けてきたのだ。自分の感覚での経験をあまりに長い間鈍感にしてしまっていたのだ。自分の身体での経験を恐れることはない。つまり、身体を楽しみ共有することで神が罰を与えると恐れることはないのだ。」マーガレットの素晴らしい貢献を再考し、あなたとともに彼女のプレゼンシングの一部を共有できるのは、大変光栄なことです。

祝福を込めて、

ジャック ブラックバーン

http://www.amazon.co.jp/Sing-Past-Winter-Modern-Psalter/dp/0972983414/ref=asap_bc?ie=UTF8

 

 

 

 

 

 

 

 

痛みをプレゼンシングする Newsletter #2

DMMTemplate

痛みをプレゼンシングするヒーリング(癒し)への入り口

地球上のほぼ全てのものの中で、私は痛みを忌み嫌っていた。神が私を痛めつけ、拷問するまでは;それから痛みは、私にとって正反対のものになった。痛みは、非常なる歓びが逆転し、扱いにくい形をとったものに他ならないからである。スリ オーロビンド、思考と箴言

痛みをプレセンスすると – 痛みは変容します!プレゼンシングの贈り物のひとつは、通常私たちが避けるような経験との関係性を変容させ、新たな洞察や新しいエネルギー、愛とつながりという今までにない感覚を与えてくれることです。避けるのは、恐れの経験のひとつです – 私たちが痛みを避けようとするのは、痛みの結果を恐れるがゆえなのです。

プレゼンスの贈り物は、変容、リラックス、洞察を含むものですが、私たちが手にしている経験とともにあり、好奇心をもつところから、直にその贈り物が生まれ出てくるのです。これまでプレゼンシングを経験したことがないと、痛みは私たちにとって最も歓迎できないものに思えます。しかし実際には、通常目を背けるようなことに向き合うと、自分自身と人生とのより深い理解に対して自らを開いていくようになるのに気づきます。痛みはあまりに強烈な信号なので、私たちの注意を引きます。痛みをプレゼンシングすることは、私たちと痛みとの関係性を変えることになるのです – 痛みのプレゼンシングは、深い平穏さと深遠なる意味の感覚へと導いてくれる可能性があるのです。

痛みをプレゼンシングするのはあまりに通常の条件付けとは異なるものなので、脳内に新しいシナプスを形成するのではないかと思います。今の瞬間に痛みとともにあると、探求への入り口を開くことになります。 第一に、条件付けを消去する過程。痛みへと入っていくことが回避のパターンを乗り越えらえるようにします。次に、痛みのプレゼンシングは、常に恐れや否定へと私たちを連れて行く思考に気付きながら、自分自身の内なる現実を経験する手段のよすがとなるのです。第三にプレゼンシングは、いかなる時も新たな経験となる実用法なので、繋がりのある痛みと回避がどのようなものであっても、毎瞬間ごとに生まれ出てきているものとなるのです。スリ オーロビンド(の言葉)を繰り返すと、プレゼンスされた痛みは全く異なる現象になるかもしれないのですそれも尋常ならぬ喜びに。

*痛みは苦しみの源ではない。恐れこそが源泉なのです!

ボディワーカーは、クライエントが恐れを軽減することにおいて大変積極的な役割を果たすことができます。ボディワークは、生命機能において副交感神経に多大なる効果を発揮し、私たちの過剰刺激社会に異なる視点とバランスをもたらすものになります。私たちは、これまでと全く異なる働きかけをするよう呼び寄せられているのです。クライエントの恐れをじかに、その人自身の身体のなかで顕在させるやりかたを用いて。そうした恐れは、その人の身体的感情的な状態全てを悪化させるものです。クライエントの恐れに効果を発揮するためには、私たちは自分自身の恐れをもっと認める必要があります。自分の慢性的な恐れが無益で有害なものであると認識していれば、共感のあるケアを受けることで治療法を探せるようになるのです。

慢性的な痛みに苦しんでいる人々は、しばしば慢性的な恐れにも苦しんでいます。慢性的な恐れは生命力を抑制し、ちょっとした耐え難い不快感を生み出しさえするものです。オランダでの最近の研究では、痛みの真の特性、つまりそれは身体にとって必要不可欠な信号であり、痛みそのものが状態を悪化させるわけではないことを患者たちに教育しました。自分で痛みを取り扱う方法や、より能動的になることについても学んでもらいました。痛みへの誤解があると、自分の痛みを大惨事とみなし、それで実際に状態をさらに悪化させることに繋がっていくものなのです。おそらく、ボディワーカーとしての私たちの規則の一つは、どのように身体に恐れが表れるのかを情報としてクライエントに与え、恐れから解放された痛みがずっと耐えられうるものであると教えてあげることにあるのではないでしょうか。私たちが行うセッションから生まれる交感神経優位の反応において、クライエントはしばしば痛みから解放されるか、あるいは少なくとも回復における痛みの役割を、以前よりも受け入れられるようになるのです。

終末期のクライエントとのワークをする際には、ボディワーカーの役割は全く異なったものとなります。もう症状緩和のみに焦点を当てることにはならないからです。クライエントの症状を逆転させることがクライエントの癒しに関わるという信念のもとでは、扱いきれないものとなるのです。ホスピスの患者とワークをしている私の友人は、終末期過程に伴う恐れを扱うのが仕事の中で最も辛い部分だ、と教えてくれました。恐れという悪魔 – 孤独感、混乱、鬱、不安、制御不能性、そして完全なる疲弊といった全てのものは、無条件の慈悲の心と質ある時間、そして配慮することに私たちが身を捧げたなら、変化するものなのです。クライエントの意識がはっきりしているにせよしていないにせよ、その人自身簡易な答えや表面的な解決法は意味がないのだとある時点で理解しているものなのです。愛情溢れる配慮と慈悲心を備えて触れることは、私たちが渡せる最も大きな贈り物となります。また、こうした仕事をしていることによって、私たち自身が、自分の恐れに取り組むことを助けてもらえることにもなるのです。

*恐れとのワーク©2003 Jack Blackburnより

_________________________________________________________________

私の実践からのふたつのケーススタディ

耐え難い痛みと変容 ケーススタディ 1

仮に、このクライエントの女性をヴァージニアと呼ぶことにしよう。彼女は成功した芸術家であった。初めて私に会いに来た時、彼女は手術によるトラウマ(外傷)からひどい痛みを抱えていた。彼女が言うには「自殺したいくらいなの」と。彼女の痛みはほぼ身体の内部だったため、私がその痛みに接触する術がなかった。私はこう言った。「あなたの痛みを私が取り去ることはできませんが、ちょっと変わった方法で痛みと関わる方法をお教えしたいと思うのです。」私はヴァージニアに、痛みを内側から感覚する方法を教えた。痛みのある部位の形を感じ、痛みの質を感じ、痛みのある部位と身体の他の部位とに何らかの繋がりがあるかどうか、また痛みのパターンやリズムがあるのかどうかを感じることを教えた。それから私は、痛みと相互作用をするための呼吸の使い方を彼女に教えた。彼女はすぐさまそれができるようになった まず痛みを強め、それから弱めることをしたのだ。そうして私は、彼女に痛みを言葉で表してもらった。彼女は、痛みは真っ赤で熱い火掻き棒のように熱く鋭いと表現した。私は、このアプローチ法を自分ひとりでも実践するよう勧めた。彼女が自分でこのやり方を用いると、ほっとする感覚を経験し始め、身体のトラウマを負った部位に直接自分が関わっているように感じるようになった。彼女は、自分の身体が癒していることを、その身体の部位が痛みで示唆してくれているのだと認識するに至ったのである。彼女は芸術と詩を含め、様々な形態で痛みを叙述した。ヴァージニアとのセッションの4回目か5回目に、彼女が痛みの入り口に直接入って行っていることが明らかになった。より深い認識と経験へと自らを開いていっているのが明らかに見て取れたのだ。ルミが回転の忘我の中で詩を口述するように、ヴァージニアは以前には決して触れることのなかった内側から、自発的に湧き上がってくるように思えるものを詩にするようになり始めていた。痛みに入ることを実践すればするほど、さらに新しい創造的な才能が手にできるようになっていったのだ。彼女は、著名なスピリチュアルな文筆家となった。彼女の詩と芸術が併収された本によって、たくさんの人々が自らの内なる源泉に開いてゆくことができるようになった。端的に言うなら、彼女の人生全体は不快感から目を逸らす代わりに、向かい合おうという進んだ意思を持つことで変化したのである。自分の身体と人生で経験していた痛みを否定するかわりに、彼女は受け入れるようになっていったのだ。痛みは、彼女自身の表現と変容の方向を指し示す「羅針盤」となったのである。

ヴァージニアの言葉:「まさに私を新しい、創造的な表現へと導いてくれるものになったわ。それは、アートギャラリーに入ってくる数人の人だけと分かち合えるものよりも、もっと多くの人たちと共有できるものなの。そしてもっと多くの人たちに本が行き渡り、私が以前していたことでは到底達し得なかった人たちの目にも触れることになったわ」

 

_________________________________________________________________

神の存在は私の目の前にあり、左手には炎、右手には爽やかなせせらぎがある。
炎へと向かって歩いていく一団は、火の中へと、そしてもう一団は甘やかに流れる水へと向かう。
どちらが祝福されていて、どちらがそうではないのかが分かる者は誰もいない。
炎の中へと入った者は誰しもが、突如としてせせらぎの中に現れる。
水面の下へと頭入れた者は、火の中に頭を突っ込んでいる。
ほとんどの人々が、火へと入って行くことに自らの身を守ろうとし、

それが火の中に身を置くことになる。
水の心地よさを好む者は、信心がこの逆転に欺かれる。
そのごまかしはさらに進んでいく。
炎の声は、私は炎ではないと真実を語る。
私は水源だ。入っておいで、火花など意に介さずに。

ルミ “the Question”より

____________________________________________________________________

痛みのプレゼンシング:イエスと言えるように ケーススタディ 2

「痛みを感じる時というのは、痛みを取り除こうとするより、むしろ癒しの謎へと自らを開いてゆくことになるものなのだ」ポール ブランド医学博士 『痛みという贈り物(The Gift of Pain)』の著者、インタヴューより

最近のセッションでのことだが、ここではエリザベスと彼女を呼ぼう。私は彼女に、私の置く手が感じられる身体の部位を、どこであっても全て感じるよう頼んだのだった。また、できる限りでいいので感じていることを言葉で示してほしいとも頼んだ。すると、私が組織の緊張状態や動きの制限を感じている時、エリザベスは内側から感じることを言ってくれたのだった。初めのうちは、彼女は身体の中で感じる感覚と感情的に感じていることの間を行ったり来たりしていた。彼女と共にあり続ける最善の方法は、彼女が報告してくれることをそのまま(言って)返してあげて、感情を身体感覚へと変換するのを手助けすることだと私には分かった。太陽神経叢へと彼女が入った時、こう言ったのだった:「色んなものを感じるわ…怒りみたいなもの」。私は手で、彼女の太陽神経叢の筋の緊張を感じ取れた。「じゃあエリザベス、私の手の下、ここであなたは怒りを感じているのですね…怒りがどのようにあらわれているのかに気づいてみて、それがどのような感覚なのかを私に教えて下さい」と私は言った。彼女はこう応えた。「燃えるような痛みで、まるで胃の中に熱い炭があるような…その熱と痛みが他の身体の部位に放出されているような感じ」。彼女がそう言っている時に、私は手の下で柔らかさが出てくるのを感じ、観察していた。またエリザベスが、胸により深い呼吸を入れていることにも私は気づいた。私は彼女の言葉を繰り返した。「燃えるような痛みは熱い炭のように、この手の下にあるのですね…」。彼女は「ええそう。今温度が下がってきているけれど」と言った。

私たちは、この同じ過程を20分ほど続け、彼女の身体のある部位から他の部位へと移っていった。エリザベスは感覚を伝えることに慣れてきて、時に感情的な内容を付け加えた。突如彼女はこう言ったのだ。「私、離婚してからずっと人生にノー!と言い続けてきたんだわ!」彼女がこう述べた時、私は彼女の右肩に働きかけていた。そこは長い間極度の痛みがある部位だった。私は、右手で彼女の菱形筋を縮めつつ右手で肩甲挙筋の付着部を触診しているところだった。「では、これまで全てにノー!と言い続けてきたのですね… エリザベス、ここに来て、ノー!がどのような感覚かを感じてみて下さい…」そう言いながら私は間を取り、彼女が感じることを私の手と関連付けずに感じとれるよう、両手を離して一歩下がった。感じている間に、彼女がとても深い呼吸をしているのを私は観察していた。気付くと私は、彼女にこう言っていた。「もし、全てのことにイエス!といってみたらどうなるだろうね」それから私は両手を戻し、先ほどまでしてきたことを続けた。ただ、今度は彼女は感じることを告げ、イエス!と言うことにより、それまでと違うものになっていった。彼女がイエス!と言う度に、私は組織にはっきりと柔らかさが生まれるのに気付き始めた。私には強張った感覚が感じられ、呼吸の律動も触知できたので、私の手のあるところを彼女がきちんと感じてくれているのが分かった。エリザベスが経験を報告していても、静かに「イエス」と言っているとしても、もうどちらでも構わないようだった。私の手の下で、全てがより自由に、柔らかに、そして温かくなっていった。これを10分ほど続けたところで、彼女は始めくすくすと静かに、穏やかに笑い始め、それから大きくいっぱいに笑った。ついに彼女は言った。「こんなのありえないわ…身体に痛みを感じないのよ!エネルギーで沸き立っている感じなの!こんなこと信じられないわ!」

彼女の言葉を私が返してあげると、彼女の身体が全く違ったものに感じられたので、私はそれを彼女にも伝えた。「身体にイエス!と言うことは、あなたの人生にイエス!ということと同じかもしれませんね」

背景:エリザベスは、42歳で、極端に難しい患者たちにケアをする職業に就いている。また、二人の思春期の子供達のシングルマザーでもある。15年前にひどく痛々しい離婚を経験し、彼女は今日も自分に価値がないように感じていた。線維筋痛症、慢性的な関節痛、眠った後と長時間の座位での強張りを訴えていた。

敬意を込めて記す。

© Jack Blackburn, 2005

エリザベス自身より 「…ケーススタディについてですが、正直私は思いだすのに2回読まねばなりませんでした。セッションで自分がとても深いところにいたのは分かっています…なので、私が経験した"イエス!"というフェルトセンス(感じられる感覚)は覚えているものの、細かいことはあまり覚えていないのです。このケーススタディは、私にとっての素晴らしい覚書です」

実践的なエクササイズ痛みをプレゼンシングする

私たちの最初の反応がするように痛みから退こうとする代わりに、痛みというものを、自分自身に問いかける無作為の信号として使ったならどうだろうか。痛みの内側から感じ、質を見極め、大きさや重さをはかり、査定し、探求してみるのだ。また、マインドが次のような結論を出そうとしているのを観察できる。痛みの原因、可能な診断や予後、それから/またはその痛みに関する責めどころなど。いかなる結論であっても、そうしたマインドの反応、その結論に伴って起こる恐れのメッセージや抵抗を観察することができるのだ。そうした結論によって痛みから自分を引き離し、抽象性へと入る試みがなされるように思える。この経験は、ルミが教えてくれるように、痛みに呼吸を入れたり、味わったり、耳を傾けたり身体の内側から触れたり、また自分の意識で痛みへと沈み込んでいくことなどで、痛みにアプローチし始めるのが可能になるのだ。

_________________________________________________________________

次回のプレゼンシングニューズレターのテーマは:ボディワークとフォーカシング

「ボディワーカーは、様々な方法でタッチを用いる – クライエントの感情的な解放を引き起こすため、クライエントの防御反応に挑戦するような探り方をする人々も中には存在する。その一方、溜め込んだエネルギーの解放を引き起こすような種類の、特定の触れ方を用いる場合もあるだろう。プラクティショナの手と指が、その効果をチェックするとともに、情報を方向付けるようなかたちでするような方法もあるのだ。フォーカシングのセラピストは、クライエントの言葉に伴う肉体的な表現を見守る。そして、フォーカシング ボディワーカーはさらに、クライエントの身体の物理的・エネルギー的な反応を感じ取る。タッチ(触れること)という言語は、刺激と反応を超えたものである…それは、全く異なる形態の、プラクティショナとクライエント間の対話なのだ。」- Touching at the Edge(辺縁で触れる)より; A Pre-Conference Symposium(会議に先立つシンポジウム) © Jack Blackburn 2005