Issue 19 長期間にわたるクライエントとの関係性:奉仕の問題

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職業としてのボディワーク:ボディワーク・手技療法自体は古いものですが、職業としてのトレーニングを要求されるようになったのはここ30年ほどのことです。私たちの殆どが、手を置くことで人々がより心地よく感じられる手助けできるという理由でボディワークに関わるようになります。誰であっても、人にマッサージを施すことはできます。また文化によっては、他の文化よりもよりタッチ・触れることが多かったり、組織をほぐしたりする場合もあります。職業としてのボディワーカー・手技療法者となると、私たちの仕事へのアプローチに影響する問題が、その表面下に表れてきます。

issue 19 image 2私たちが扱う事になる、鍵となる問題のひとつは、自分自身の問題になります:つまり、無料で提供するサービスと、生計のためのサービスの違いです。高齢者はしばしば、私たちが身体に触れることに料金が発生する際に混乱を来します。人によっては、家族全員に無料で奉仕することが期待されるような文化背景を持って来ている人もいるのです。それで支払いをもらう段になると、私たちの側が、人への奉仕という自分の感覚と葛藤をきたすことがよくあります。

issue 19 image 3奉仕としてのボディワーク:私たちの職業は、人が心地よくなるのを手助けするために触れることと混同されるため、私たちが何をするにしてもクライエントは一般的に利益を得ることは分かっています。触れたり摩ったり揉んだりするのは、ほぼ全ての生物が相互作用しあう自然な方法であることを私たちは知っているのです。私たちが真にこの職業を愛している理由の一つは、この職業が思いやりの象徴としてどれだけ人々に利益を与えるかを理解しているからです。職業的に技術やマッサージ台やオイル、クリーム、枕やシーツを用いるとしても、それらは、愛溢れる慈愛のタッチを与えることに必要不可欠というわけではありません。どれだけ自分をプロとして定義付けしているとしても、サービス・奉仕の問題というのは私たちの職業全ての表面下にあるものなのです。なぜなら、素人のボディワークはかなり自由に行われているものなので、こうしたケアのしかたが私たちの職業のとらわれ方にいつもかなりの影響を与えるものとなるのでしょう。

禅仏教との類似点:私は、(私のスーパーヴァイザーであり友人でもある)ゲンジョウにこのissue 19 image 4テーマのセミナーを開催するよう依頼しました。なぜなら、仏教僧として、彼は人々への奉仕の道を理解しているからです。僧侶と尼僧の場合、肉体に触れることは必ずしもあるとは言えないものの、その一方、奉仕における全ての生きとし生けるものへの深い尊敬が教えの中で伝えられています。僧侶は、無生物の形態であっても全ての形態に横たわる本質、あるいは現在の存在を祝福するため、合掌してお辞儀をするよう教えられます。そのため、ひとつひとつの作業が心の表現となるのです…心中心の認知的な意識と慈悲心を発展させるという意図とともに。私たちの職業においては、日常生活の中で生きている存在への本質と感謝を持って肉体にアプローチすることが可能です。これは、クライエントを直・治さなければならないと感じることとはかなり異なる精神です。そこには、ともに取り組んで人への深い敬意と信頼があり、またその一方で、生命という贈り物を高めるありとあらゆる機会を同時に与えることになります。issue 19 image 5

何らかの肯定的なことをする…環境もクライエントも傷つけることなく:仏教には「正命(しょうみょう)」と呼ばれる概念があります。いかなる知覚生命体にも害を及ぼさず、環境にも害を及ぼさず、生態系に存在するパターンを阻害するような条件を作り出さずに人間の生活をする、という意味です。そのようにして、修行者は生命のシステムを支え、それが栄えるように全てのことを行います。こうした価値というのは、いかに私たちの取り組みに活かせるものになるのでしょうか。おそらく、親としての本能という例は、発展と成熟するものとしての生命への奉仕の感覚と近いものではないでしょうか。正命の概念もまた、「ケア・世話や配慮をすること」が含まれます。私たちの職業には、人々へのケアと「害を与えない・傷つけない」ことが少なくとも意識的に含まれているのは大変幸運なことです。また、私たちの職業は金銭に突き動かされるものでもありません。どのようなボディワークの職業でも、どこであってもどのようなことであっても、人々への奉仕をする能力と選択肢があるのです。

奉仕と強制労働の違い:しかし、奉仕と強制労働には違いがあります。私たちの職業には奉仕issue 19 image 6と思いやりがその中核にあるとはいえ、人を支えたいという意志と、他の人々の必要性に仕えることとの間に区別をつけるのは重要です。これは、ボディワークと売春の間でもっともはっきりと見られるものです…私たちの職業にとっては、大変適切な区別でありつつ、皮肉な比較となるところですが。クライエント、保険会社、そしてその他のケアを与える職業は、しばしば私たちの職業を隷属の一形態と看做しています。この理由の一つとしては、ボディワークをしているのが圧倒的に女性の割合が高いということがあります。ちょうど、伝統的な主婦というものが家庭生活を続けるための仕事をしても支払われないのと同じように、ボディワーカーは最後に支払いを受けるものであり、またケアを与える職業の中でもっとも敬意を払われない立場にあるのです。issue 19 image 6-2

1981年に、オーストリアの哲学者であるイワン イリッチが「シャドウ ワーク」(影の労働)という題の本を出版しました。この語は、ほとんどが女性である、最も支えとなる労働に携わる人々が、全く支払いを受け取れない、あるいはごく僅かな支払いしか受け取れないということを示す狙いがあります。私の経験では、ほとんどのボディワーカーが生活をしていくに十分ではありません。特に子供がいる場合はそうなのです。パートナーの収入がなければ、(米国での)健康保険を受けることや休暇を取るだけの余裕がありません。女性の労働というのは以下のようなものです:

ノラ

ノラは1セントたりとも稼がず
ノラは一度も家賃を払ったことがなく
ノラはほとんど家から離れたところに行ったことがない

ノラにとって第一には妻であり
赤ちゃんに息吹と生命を与え

家を掃除しご馳走を供し
ノラは自分が最も価値がないと感じるのだった…

覚えておかなければ、忘れてはならない
ノラの人生の真の意味を
そして彼女は1セントたりとも稼がず私のために人生を捧げてくれたことを

© 2000 Susan Osborn ReUnion album: tribute to her grandmotherスーザン オズボーン アルバム リユニオン(再結合):彼女の祖母への賛辞

ジャックケアをしてあげることケアを与えること:ケアをしてあげることは、自分で世話をできない人々の治療や世話・ケアを、その人に代わってしてあげることです。ボディワークissue 19 image 7では、クライエントの保険の契約の条項が、ケアをしてあげる役割にボディワーカーを位置付けています。直す・治すことや症状緩和の強調は、プラクティショナとクライエントの数多くの選択肢を取り去ることになります。それらのセッションは限られているものだとはいえ、辛いクライエントにとっては大きな助けとなります。クライエントが自分で選択・決断したい気分ではない時には、プラクティショナの方もまたケアをしてあげる役割が自分だと思い込むものなのかもしれません。ケアをしてあげる人としてのプラクティショナは、治療の目標と結果に責任を負います。クライエントの依存を育てることになる場合には、ケアをしてあげるのは不適切なものとなります。

ケアを与えることは、ケア、援助、助け、介助、治療、注意などをクライエントに与えることです。ケアを与える側においては、特定の結果を生み出すという義務はありません。私たちの主な義務は、クライエントと共にあることと、可能な治療的過程です。ケアを受ける人は、その人自身のケアの過程にきちんと責任を持つことが保たれます。それはプラクティショナの選択とケアの目標も含みます。

クライエントとの取り組みの中核は、私たちがすること、つまり私たちの役割に対する私たちの側の受け取り方になります。私たちは、料金を受け取るために仕事をするという召使いとしてそこにいるのでしょうか。他の人に心地よさとサポートを与えることで大きな喜びを得られるからそこにいるのでしょうか。時にこれはかなりの混乱を来します。なぜなら、私たちは自分の仕事からのたくさんの喜びを得られるからです。

セッションにおける境界線:私たちの職業はケアを与えるものであり、そのために全てのケアissue 19 image 8に携わる人々が直面する問題を扱わねばなりません。クライエントが自分のケアをできる能力と、その質とケアの質のバランスをいかに取るのか、ということです。十分に与えた時には、どうしたら分かるのでしょうか。クライエントの重荷を引き受けすぎる時というのはいつなのでしょうか。奉仕の問題は、私たちの無自覚さと不必要なケアの引き受けかたに影響するものだと私は信じています。奉仕は、いかに私たちの職業そのものがそれ自体を定義づけるかが中心となるものなのです。人のケアを引き受け、人々の苦しみを楽にすることは、人間の特性の自然で賞賛すべきことであるがゆえに、複雑な論点なのです。奉仕の問題はまた、倫理的な問題でもあります。なぜなら、他の人に代わって重荷を背負うことは、コントロールの可能性とクライエントとプラクティショナ双方向における操作の可能性を孕んでいるからです。

贈り物と交換の疑義私が強調したいことのひとつは、奉仕というのは強要され得ないissue 19 image 9態度である、ということです。真に「奉仕」たるには、自由に与えられねばならなりません。奉仕は、与える側と受け取る側両方にとって喜ばしいものです。私たちが奉仕という場から与える時、クライエントが人生の中で、同じ精神を他の人々に伝えることは可能です。ネイティヴ アメリカンの文化で次のようないい習わしがあります:「贈り物は動き続けねばならない。」真の贈り物は強要され得ません。ですから、クライエントから贈り物をもらったりクライエントと交換をしたりすることに葛藤を来した時には、与えるという過程をより深い観点から見てみる必要があるのです。もしかするとクライエントは、彼ら自身の存在に敬意を払って「仕えること」にぴったりする方法を求めているのかもしれません。

私たちの仕事の「奉仕」を愛する:症状緩和に焦点を当てるがゆえに、私たちは、思いやりとサポートを提供する意図があってこの仕事をしていることをいとも簡単に忘れてしまうものです。ちょうど禅の修行の、全ての知覚的な存在に思いやりと注意を向けること(時にこれは「合掌礼拝」と呼ばれます)のように。どのクライエントにも、どのセッションにもそのように向かうことは可能ではあります。よくあることですが、私たちあるいはクライエントが症状にすっかり焦点を当てることになると、与えることの真の喜びは失われます。奉仕は心に響くものであり、治療もまた心に響くものになり得るのです。しかし私たちはしばしば、「奉仕」そのものを忘れ、隷属的になるかどうかの選択のみになってしまいます。私たちがクライエントに捧げられる最も大きな贈り物は、私たちの分かつことなき思いやりある配慮なのかもしれません。多くが「シャドウ ワーク」と呼ばれる、歴史の根深いところで行われてきたものは、奴隷たちによってなされました。時に私たちは、クライエントの要求に応えようとする時、賃金労働の奴隷のようにまだ感じてしまうものかもしれません。

あげてしまうことができる…私たちの選択:私たちの職業的な文献では、タッチを通してのコミュニケイションであるなぐさめとサポートについては無感覚になっているようです。メグ ロブションの「終末期」のクラスでは、ケアを提供することとクライエントと「共に在る」ことによる共感について語られます。その意味での奉仕は、決して強要にはなり得ません。実際私たちは、「あげてしまう」という選択ができるのです。つまり、生命そのものに提供する配慮や治療を捧げる、という意味です。

「自由に与えられる」ことと自由のために与えることには違いがあります。私たちが最も愛するセッションについて考えてみるなら、そこにはクライエントとプラクティショナ両者のための自由という質があるのです。長きに渡る関係性においてはしばしば、与え方よりも、「与えるという自由」の方により配慮することがあります。この変化により、両者が奉仕の統合性を感じられるようになるのです。

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