Presencing Issue 18 相互的なヒーリングの関係性:クライエント-プラクティショナの融合

相互的なヒーリングの関係性:クライエント-プラクティショナの融合

Issue 18 image 1独りで癒される者はいない:この言明の示唆するところには二重の意味があります:どの癒し・ヒーリングも二人あるいはそれ以上の人が含まれます。なぜなら、真の癒し・ヒーリングは分離から離れ、融合へ向かう動きだからです;プラクティショナもクライエントも、病と肉体を痛めることへの受け取り方を訂正しているのです。一般に、症状の緩和に焦点を当てている際は、私たちは癒しやヒーリングについては語りません。しかし、もし症状が、人生の生き方に注意を向けられるようにするための無意識的な方法での召喚だとしたならどうでしょう。病と肉体を痛めることの受け取り方が、プレゼンスの共有とともに癒されるとしたらどうでしょうか。

何年ものヴィパッサナ瞑想で、私は、痛みの信号は今の瞬間にのみ起こることを学びました。そのように痛みを「プレゼンス(今の瞬間)へと入るための呼びかけ」とみなすこともできるのです。クライエントがセッションに抱えてくる痛みが、ふたり双方にとってプレゼンスの状態になるための呼びかけだとしたらどうでしょう。ソマティクス的な認知意識とともに、身体は「存在の土台」とコミュニケイションをとるための精密機器となるのです。私たちは、触れること・タッチでひとつになる理由を授けられているのです。お互いにプラクティショナとクライエントとして出会い、今だけに起こる出来事を分かち合います。もし、私たちの身体が、プレゼンスに参加するための精密機器であると仮定してみたらどうでしょう。すると、プレゼンスの基本原理は、私たちの内と外の感じられる感覚(フェルト センス)を通して症状に付き添い、ついていこうとするお互いの同意だということになります。

互いに注意深くソマティクス/プレゼンシングを通して:通例のボディワークのセッションにおいては、プラクティショナは料金を支払ってくれるクライエントの要望に付き添います。しかし、プラクティショナとクライエント双方が、意識的にソマティクス的に気づいている状態になると、何か別のことが起こります。共に傾聴するという親密な繋がりが形成されるのです。セッションの目的は、相互的なヒーリングという分かち合われる経験へと入っていきます。それぞれが異なる役割を果たす一方で、両者ともに無分離の状態へと入ることによって利益を得ているのです。プレゼンスに入り、媒介を通さずに身体の信号に至ると、プレゼンシングを通して知覚し理解し始めていることにそれぞれ気づきます。媒介を通さずに、というのは、思考のマインドが身体の信号を解釈しようとしない、という意味です。身体の信号は、起こっているいかなることにも継続的に伴っているのです:痛み、圧、思考、感情、記憶、組織操作、ヴィジョン、洞察、言葉、肉体的な機能といったものとして。

プレゼンシングにおいて、人は相手の人の身体の状態を感じることができます– それもまた、フェルト センス(感じられる感覚)と呼ばれるものです。この感覚能力を説明するひとつの方法は、思考、知覚、概念、解釈、観察を投影する条件づけられたマインド・精神は、プレゼンシングにおいて今や、ありとあらゆることが肉体での感覚刺激を通して透過している、という説明です。この肉体の感覚刺激の知覚力は、卓越した身体の感覚刺激によって基礎を確立し、確証ある身体中心の意識へと導いてくれます。プラクティショナは、クライエントの肉体的、感情的、エネルギー的な層の様々なレヴェルを感じられます。クライエントは、プラクティショナの注意深さ、安定性、身体状態:バランスが取れているかいないか、疲れ、相互作用Issue 18 image 2.jpg性、好奇心、クライエントの経験に進んで参加しようとしているか、といったことを感じ取れるのです。

ふたりあるいはそれ以上が集うところどこであってもそこに私はいる:この言明は、通常キリスト教の文脈で解釈されます。欠けている言葉「私の名において」は、イエスあるいはキリストと解釈されます。しかし、キリストはまた、集合的な人類の意識を包括する存在を示してもいるのです。「私はいる」というのは、全ての創造物の源とともにあるワンネス(一なるもの)も意味する、神の認識のレヴェルにおける存在を意味します。そして「集う」という言葉は、プレゼンスの分かち合いを意味しています。

Issue 18 image 3ですから、ケアを与える人々のための解釈としては、「二人の人間が意識的にプレゼンスを分かち合う場どこであっても、ヒーリングは可能である」として構わないでしょう。ヒーリングが起こり得るのは、両者がキリストの意識、あるいは全一性へと入っていくからです。ア コース イン ミラクルズでは、このプレゼンスの分かち合いが「分かち合われる聖なる瞬間」と呼ばれます。プレゼンシングが共有される状態では、聖なる瞬間が、永遠である今という状態へと導きます。このヒーリングの解釈は、両者が全一性あるいは目覚めへの認知的な意識へと向かって動いていくことを示唆しています。私たちのタッチとソマティクス的な意識を用いる際のステップは、私たち自身とクライエントを、真のヒーリングと目覚めへともたらすものとなり得るものなのです。

クライエントはプラクティショナの身体を内側で感じられる赤ちゃんがお母さんを感じるように:子宮の中の赤ちゃんは、母親の身体に起きていることを固有(内)受容感覚的に感じ取れると考えられています。母親が目覚めているのか眠っているのか、歩いているのか走っているのか、水に浮いているのか、重い荷物を持っているのか、あるいは身体のバランスが取れているのかいないのか。多くの人がまた、赤ちゃんは母親の感情的な状態を感じられ、母親の感情的状態と肉体的化学反応によってじかに影響されていると信じています:母親がお腹が空いている、悲しい、用心深くなっている、満たされている、消化している、カフェインに影響されている、恍惚としている、エンドルフィンを経験している、アドレナリンが放出されているのか副交感神経優位のリラックス状態にあるのか、などといったことです。

子宮から出た赤ちゃんは、胎内にいた時と似た母親との繋がりの反応を示し、また他の人間にIssue 18 image 4も、母親とのそれよりも低い程度で繋がり示します…恐らくは、この赤ちゃん(の物理的な身体)を超えた感覚的な認知意識は、赤ちゃんのもつ信頼と不信の感じ具合で増減するのでしょう。赤ちゃんは、母親の身体の近くに抱きかかえられ、身体全体で揺らされると落ち着きます。もしも赤ちゃんが親の身体の引力の中心から離れたところで動かされたら、赤ちゃんは激しく手足を動かし始めるでしょう。また、抱いている人が腕と肩だけを使って赤ちゃんを揺らした場合も同じことになります。

赤ちゃんのように、クライエントとプラクティショナの関係も、相互的な信頼が発展するにつれて高められて行きます。治療台の上のクライエントがソマティクス的に気づいた意識状態になると、プラクティショナの手と身体から来る数多くの信号を感じられます。プラクティショナの身体のバランスが取れていなかったり、プラクティショナが手と腕しか使っていなかったり、心ここにあらずなのかここにいるのか、またプラクティショナのしていることがクライエントの身体で起こっていることと調和しているのかどうかといったことは、クライエントには分かるものなのです。

プラクティショナはクライエントの身体部位でクライエントの意識を感じられる:プレゼンスの状態になったプラクティショナは、プラクティショナのマインドではない何かによって導かれていることに気づくようになります。彼/彼女は、今存在しているクライエントの身体での変化の潜在性へと向かいます。それはあたかも、プレゼンシングによって、無時間や永遠の次元に存在する、クライエントの秘めたる癒し・ヒーリングに到達するかのようです。クライエントの潜在的なヒーリングにアクセスするのは、全体性へと向かうプラクティショナとクライエントの間の動きでもあるのです。

Issue 18 image 5両者が、ソマティクス的な認知意識によって時間の存在しない領域に導かれ、二人の潜在的なヒーリングがセッションを導いています。このヒーリングはまた、イエスの言ったことによれば、「私は在る」あるいは普遍的な存在性へと向かう動きでもあるのです。この動きにおいては、個々人の認知的な意識を微塵も失うこともなく、自身あるいはエゴ・自我の境界線の溶解が起こります。セッションがこのプレゼンシングの輝かしさを纏うとき、プラクティショナの手は、クライエントの身体意識から生ずる変化への潜在性に導かれます。言わば、身体中心の意識の出会いがそこにあるということなのです。セッションは、展開する認知的な意識の過程(プロセス)となっていきます。私たちは皆、自然の中や愛する人々といった、人生の親交の中での頂点の経験でそうした拡張した身体意識の過程を経験します。

プラクティショナとクライエントがタッチを通して相互作用する:プレゼンスによって導かれる時に起こることは、私たちはほんの部分的にしか理解していません。 子宮の中の赤ちゃんのように、相互に発せられる情報というのはとてつもない量なのです。プラクティショナとクライエントが、いつもタッチは双方向的であると気づくのです…あなたが触れている人は、あなたに触れてきているのです。その一方、殆どのボディワークは一方方向のように思えます…クライエントのマインドはマインドそのものに埋没して自己陶酔状態になってボディワークを受けているだけで、相手に与えることはしてはいません。母親とお母さんの間でもこのようになり得ます…赤ちゃんが眠っている時でさえもそうかもしれません。

クライエントがソマティクス的に気づいた状態になる時、クライエントは自分のタッチが自分Issue 18 image 6.jpg自身の深いところにある存在からきていることにも気づくようになります。ソマティクス的に気づいた状態になっているプラクティショナにも同じことが言えます。ですから、プレゼンシングを分かち合うタッチの主体は、それぞれの人のうちにある存在性となるのです。これは、互いが欲望を達成するような性的なやり取りとは全く似ても似つかないものです。分かち合われるプレゼンシングには結果はありません。なぜならそれは、全ての人、すべてのものとともに在る共-創造性に向かう継続的な動きだからです。プレゼンシング タッチの親密さは、すべての生命への感謝と生きとし生けるものに溶け込んでいく方に向かって育って行くものであり、しかも時間に縛られてはいません。共-創造性は、生殖よりもずっと偉大なものなのです。

プレゼンシングの実践者はクライエントの内在性と調和できる:それぞれの人の内側には、私がさきに「内在」と呼んだ全体性と、ヒーリングへの潜在性があります。この内在的存在は形なきもので、時間もなく、すべての生命の源を決して離れたことがないものです。それはすべての存在の胚形質です…永遠、無限、絶え間なく創造的で、拡張して行くのです。プレゼンスは、私たち自身の存在と直に繋げてくれるものであり、その存在がすべての生命と分かち合われていることを証明するものなのです。私たちとクライエントがプレゼンスを実践する時、私たちはまるで内在する存在性が現れるよう呼びかけているようなものなのです。

私たちは、存在のレヴェルにおいてもっと生命に気づくようになります…そして、私たちがその存在の表現者となるのです。私たちとクライエントがより多くプレゼンシング を実践して行くと、存在の表現としてのやりとりを目にし、感じ始めるようになります。私たち自身の内在する本質が現れ出る時に気づくと、出来事や周りにいる人々によって確証を得ることとなります…存在が存在と出会い、存在によって確証され、思い出され、分離が終わり、ワンネス・一なるものを認識します。それは、内在する存在性が現れ出てくることの証拠となって行くのです。

 

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