肉体の復活 パート II 「師としての肉体」

 

肉体の復活 – パート II

「師としての肉体」

 ヘルマン ヘッセの『東方への旅』の主人公であるHHは、ひどく驚いてしまいました。仲間と共に東洋の謎の探求をする – 究極の真実を探す – 目的の旅は失敗に終わったのですが、その旅の間、HHが必要とする全ての世話をしてくれた忠実な召使いのリオこそが、いつも変わることなき真実の宝庫でいてくれたことが、何年も後になって分かったからです。私たちも、私たちの貯蔵庫となってくれているものに同じ驚きを持つことになるかもしれません。私たちの肉体は、私たちが耳を貸したくない時であっても、いつもよき忠実な召使いであり、私たちの必要に仕えてくれています。私たちが分離して人よりも優越感を覚える必要に駆られると、私たちは身体に非難を浴びせかけます。主な宗教のどれであっても、肉体は罪深く裏切るものであり、そのため罰に値するものとして身体を非難しています。おそらく、私たちは長きにわたって自己欺瞞を働いてきたのでしょう。HHと彼の仲間たちのように、私たちは究極の真実を捜し求めるのに間違ったところばかりを探してきたのではないでしょうか。もしかすると、身体-マインドというものが、常に目覚めるための導き手であったのかもしれません。プレゼンシングによって、肉体は私たちの意識を育てる道具として与えられたものとなり、存在性という謎を捜査する術となってくれるのです。もしやボディワーカーは、肉体の復権において直接的な役割を手にしているのではないでしょうか。

クライエントが身体症状を報告してくれる時、よく注意してクライエントの言葉に耳を傾けると、苦しみに恐れが関連している言葉をしばしば耳にします。外的な原因や責めるべき人がいない場合、クライエントはヨブのように自分を責める羽目に陥ります:「私が何か間違いを犯したから、そのために罰を受けているのだ」とか、あるいは「何かが間違っているに違いない。私にこんな罰が当たっていいわけがない」というように。これらが、隔絶された自分を強調していることに気づいて下さい – クライエントが自分の身体症状に入り込んでいけるよう手助けすると、ことは変化し始めます…まず起こってくるのは、責めるということが消えていくのです。症状それじたいが、クライエントと私たちを意識のより深い経験へと手招いてくれているかのようです。私たちは敷居をまたぎ、私たちの思考や記憶によって予め定義づけされていない通路を伝って入り込んでいきます。(プラクティショナとクライエントの)症状に対する嫌悪感が後退した時に、私たちはこの新たな場所へと入ってきたことが分かります。

 

私たちは、プレゼンシングの技法を用いて入っていきます – 身体の知覚できる感覚をプレゼンシングし、ついに身体-マインドという楽器を繊細にチューニングするのです。ルミは、私たちの魂、あるいは私たちの存在と呼ぶものの解剖学を測るために楽器を使うのだと言いましたbuckhornsunrise2プレゼンシングの実践に適応するなら、私たち自身の身体-マインドでできた楽器の各段階と用い方を学び始めるということになるのです。自分でこうした使い方を探求していくうち、存在性へと向かう旅を手助けしてあげたいと思えるような人たちのための
よりよい同伴者にもなってゆけるのです。共に、ボディワーカーとプレゼンシングのクライエントとして、私たちはそうした新たな認識へと入っていきます。身体の信号、特に症状は、信頼に値する通路となってくれるのです。

 

プレゼンシングにおいて思考は、観察と好奇心、内的な認識論のようなものに向かっていくようトレーニング(再教育)されます。マインドが身体の声明(コミュニケ)に多大な注意を払うと、結合された情報、身体とマインドはプレゼンシング(presencing)、先んじた感覚(pre-sensing)の経験を生み出します。瞬間から瞬間への観察は、問題解決や原因と結果の理論よりも深遠なレヴェルを生むのです。今や私たちは、クライエントと共にこの旅をしつつ共に歩んでいく新たな方法を学び始めているのです。

では、「肉体の復活」というのは何を意味するのでしょうか。第一に、身体-マインドはプレゼンシングの過程において変化させられます。そうした変化は、クライエントにもプラクティショナにも識別できるものです – プラクティショナは組織反応として変化を触知でき、クライエントは内受容(固有受容)感覚的に感じられます。身体の知覚できる感覚を通して瞬間ごとに観察することにより、マインドの中心は抽象的で隔絶的な知性から思いやりと包含的な感覚へと変化します。思考は、行き当たりばったりの自己中心的なものから、秩序ある、心が中心のものへと展開します。起こっていることを認識し始めると、身体は新VictorianValley1たな意味を取り始めます。自分の思考が感覚する自己(sensing-self)から現れてくるのを感じ、またさらに深いものが起こっているのを感じます。この思考のマインドは今、感覚の身体と同調して活動しているのです。思考と感覚が同時に沸き起こり、どちらも相互的な確証
の中、身体で感じられます。感覚される思考のこの確証は、身体-マインドにおいて変化を生み出します。それらの変化は、身体の中での副
交感神経優位の反応などに伴われるようであり、それは、身体-マインドにとって深遠な充実感と変容をもたらすものになります。

この変容は、意識的なマインドにおける覚醒(en-lighten-ment)と呼ばれるものに対して、身体での組織変化として感じられている可能性があります。今や身体-マインドの経験は全てがみずみずしくて新しいものとなり、防御や後ずさりといった古いパターンを手放すことで身体が反応するのです。意識的なマインドが経験の証人として身体に入り直す時、身体のシステムは新たな生命力を持って反応します。洞察が生まれ始めますが、それは生命から抜き取られたものではなく、むしろ生命に参加するところから生まれてくるようです。身体に光を当てることと変容させることには時間を要しません。事実、時系列の時間が、プレゼンシングとともにカイロス(意味ある無時間的な瞬間)へと変化するのです。すると時間は共-創造性の媒体になります。身体-マインドはそれ自身の共-創造性に参画しています。経験がカンヴァス(画布)であり、時間と行為は媒体であり、そして感じられる感覚あるいはプレゼンシングが表現となるのです。プレゼンスと共に肉体が復活するとき、時間は、私たちの隔絶された人生の杓子定規な統治者ではなく、すべての生命である生きとし生けるもののための召使いとなるのです。butterfly_Pinkflower

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