洞窟の中の聖フランシス ニューズレター#8

恐れのプレゼンシング– 導入

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9月の日本滞在を前に、私はニューズレターの次の題材を考えていました。私は今、オーカス島で隠遁中です。昨日は、美しい庭に座って陽光を浴びている時に、ある聖フランシスについての話がふと浮かんできました。私はこの話の元についての記憶を辿ってみたもののはっきりせず、確かカザンザキスの著作でその話を読んだのではと思いました。恐らく、皆さんもその話を聞いたことがあるのではないでしょうか。アッシジのフランシスについてはあまりもたくさんの逸話があります。私は自分の言葉でその話をもう一度書いていました。すると近くの木の茂みから小鳥*が飛んで来て私の足に止まり、私を見上げました。これは、私が考えている物語が真正のものだと知らせてくれるに十分なものでした。というわけで、元々の話を書いた人への弁解は全てこれでよいことにして、その物語を皆さんに披露することにしましょう。

*註:アッシジの聖フランシスは、小鳥たちに説教をしたという言い伝えがあり、その姿を題材にした絵画も多くあるほど西洋のキリスト教世界では有名である。ここでは、その縁深い小鳥という象徴的存在がこの物語が容認してくれるサインと捉えている。

洞窟の中のフランシス – 知ることへの疑問

アッシジのフランシスと同胞ベルナルドは一緒に旅をしていました。小さな村で神の言葉を伝えた後、フランシスは一人きりになれるような洞窟が近くにないかを尋ねました。洞窟を見つけると、フランシスは水袋を満たし、ベルナルドに近くに野営をしてそこで自分を待っていて欲しいと頼みました。ベルナルドは、フランシスがここ数日何かで頭がいっぱいになっていることに気づいていました。フランシスがある気分になっている時には、友人の要求に抗わない方がよいことを彼はわかっていました。フランシスが洞窟から姿を現すのを待っている間、彼は貧困生活と聖なる狂気について考え、それらをフランシスと話し合おうと決めました。時に、洞窟から呻き声や息苦しい叫び声が聞こえてくると、彼は友人のことが心配になりました。さらに不安にさせたのは、そうした声の後に何時間もの静けさが続いたことでした。これは二日間、日中夜続きました。ベルナルドは自分の祈りを続け、友人のためにより多くの祈りを捧げることをしていました。

ついに三日目の朝、フランシスが姿を現しました。疲れて血の気がなく、ベルナルドに気づいてさえいないように見えました。彼は身体を清め、数少ない持ち物を集め、そして歩き始めました。ベルナルドは程なく追いつき、後ろについて歩きました。友人が険しい足取りで歩き、時折水を飲むために立ち止まるのを見つめながら。日の中頃になり、彼らは石に腰掛けて休みました。ちょっとした恐怖におののきつつ、ついにベルナルドは沈黙を破ります。「兄弟フランシスよ、洞窟の中で何が起こったのですか」フランシスは、とても遠くを見るような目つきで彼を見ました。「そのことは話したくないんだ。」

同じ日のその後、それから翌日もほとんど、彼らは沈黙の中旅を続けます。ベルナルドはそれでも着いて行きました。友人の歩みがゆっくりになり、躓きがちになるのをみとめながら。彼は、止まって休むべきだと強く主張すべきか考え倦ねましたが、心配な思いをぐっと胸に留めて黙っていました。黄昏時になり、彼は火を起こし乾いたパンを水に浸しました。ひどくほっとしたことに、彼が差し出したパンをフランシスは口にしました。夜の祈りの前に、ベルナルドは訊ねました。「起こったことを話す気になったかな。」フランスシスはより遠い目をして言いました。「いや。」

それから三日目の朝、ベルナルドは陽が登る前に目が覚めました。祈りの言葉を口にしてから薪にする木を集めました。フランシスの姿は見当たりません。今日は、ベルナルドは鍋に水を沸かし、みずみずしい青葉を少し入れ、乾燥させた穀物、そして少しの塩を入れました。その粥をかき混ぜていると、フランスシスがどこからともなく現れ、彼の隣に静かに腰掛けました – 自分の木の器と匙を手にして。そして、粥が出来上がるのを待っていました。二人は粥を食べ終えて、ベルナルドが話し始めました。フランシスは友人の唇に手を当てました。フランシスの瞳は涙でいっぱいでしたが、友人を深く見つめていました – ちいさな微笑みが彼の顔を開きます。「では話そう。」ベルナドはほっと人心地つきました。フランシスは身体の向きを変え、火のほうを向き、手を温めました。

「何週間か、私は心配と疑念とに悩まされていた。私たちがしている活動はどんどん広まっている。そして今は、私は初めの頃には決して存在していなかった数多くの悪魔に直面しなくてはならなくなっている。いまや名も知らぬ村から村へと密かに旅をし、そのうちの四分の一は、時にあまりに居心地が良すぎるところに寝泊まりし、良いものを食べ、私が好むよりもずっと裕福な人々と出会う。そして今、村全体に説教をして欲しいと頼まれ、多くの人々が私を指導者だと見なすようになっている。私は単純な人間なのだ – 神の道化だ。私は一回に数名の人々に話をし、鳥に講話をする方が好ましいのだ。私は心の中で問い始めた。自分が誘惑を感じ、そこに魅力を感じるときにどうしたら神の召命に忠実でいることができるのだろう、と。そして神よ、こうした変化や要望が、果たしてあなたからきているものだとどうしたら私はわかるのでしょうか、と。

Lightening洞窟の中で、私はこうした質問を何度も何度も問いかけた。たくさんの答えを耳にした – だがどれも真正のものには感じられなかった。私は、何か兆しを与えてくれるよう、何度も何度も神に懇願した。私の道が正しいと示してくれるような兆しを求めて。「私は、あなたが求めることはなんであってもしましょう。ですが、それを求めているのがあなたであることを私は知る必要があるのです」と。私は疑念で七転八倒し、身体はあたかも熱にうかされたようにばたばた蠢き、ぶるぶると震えた。私はたくさんの顔を見た。責められ怒りに満ちた顔を。私はたくさんの音を聞いた。外から聞こえるもの、そして私の口から発せられたもの。水は私をなぐさめてはくれず、私は眠れなかった。洞窟の闇と静寂はどんどん耐え難くなっていった。私の祈りは叫びと懇願になり、時には神に対する抗議になっていた。とうとう神が私に答えてくれた。「お前には私の声だということがわかるだろう。なぜなら、私はお前がするのを恐れていることを求めるからだ。」ついに私は、神が話しているのを耳にしていると分かったが、耳にしていることは私は嫌だった。それから私は、新たな気づきと戦っていた – 自分が耳にすると期待していたことではなかったのだ。そうしたすべての変化を抱擁するよりも、私は人生を単純に生きる方を好むのだ。昨夜私はほとんど眠れず、この新たな方向性を予見し、夢を見ていた。ついには静けさがやってきた。恐れの波が凪いで行くのを感じた。私は初めて、私の恐れによって自分の方向性を知るのは確かなものであり、また神が私と共にいることを確証してくれるものなのだと気付いたのだ。もう私はこの新しい信者たちの中に入り、挑戦にまみえ、私の周りにできつつある動きに加わる用意ができた。私は間違いを犯すだろうし、転びもするだろう。私は疑念と恐れに苦しみもするだろう – しかし私は決して一人ではない。今私は、神の愛がいっぱいにひろがるのがわかるのだ。」

解説 – 行くのを恐れるところへ行く

 フランシスのように、私たちの人生においては、何かに呼ばれているように感じていながらも、最も
High_Sierra深い恐れにぶち当たるような場面が多々あらわれてきます。奇妙なことに、そうした深く根ざした恐れは、生命を脅かすような方向性に向かって行くというよりも、かえって抱擁と成功と幸福と関わっているものなのです。人生の新しい帰路にたち、努力をして励んだことが与えられるようなことになると、フランシスと同じように、私たちは最も自分自身の想像してきたものに信頼を置けなくなったりするのです。ボディワーカーや人へのケアを生業としている人々は、クライエントの身体にそうした躊躇や疑念を感じとることがあります – そして、私たち自身の身体にも、です。神経質なエネルギーでいっぱいになっているような特定の緊張が、身体で感じられるのです。私たちの手によってこうした緊張のエネルギーが解放されると、身体がリラックスへと向かって行くのが感じとれます。クライエントが、いかにそうした疑念や恐れが身体に具現化しているのかに気づくようになると、それらの変化は理解へと向かう「通過儀礼」のようになります。私たちは、その変化を身体で感じる際のクライエントの動揺を組み立て直す手助けをすることができるのです。私たちのプレゼンシング タッチのやりかたによっては、数あるコンサルテーションや支えになる友人たち、家族たちよりも、ずっと安心を与えうるものともなるのです。

私たちは誰しも、疑念と恐れを持つときがあります。また多くの人々が、そうした恐ろしい時期が定期的に起こるものとなっています。清貧の誓いを旨としたため、フランシスは住宅ローンや保険、成功への競争、また経済的な損失やそれらの失敗などに関わるような恐れに苦しむことはありませんでした。ここでの皮肉的なことは、フランシスでさえも人生の恐れに満ちたところから逃げ出し得なかったということです。神の答えを耳にしたとたん、彼は恐れを経験し続けるのだと認識しました。しかしながら、神の召命に沿って行くのを学ぶことで、また行くのを恐れるところへ行くことで、彼は自分の恐れを協力者へ – 継続的な方向性と挑戦の源泉へと、どんどん変革させていくようになるのです。そしてそれが神の啓示でもあるのです。

私たち自身の恐れをプレゼンシングする

 自分が恐れるところへ行けるよう、人生の枠組みを変えたなら何が起こるのでしょう。私たちの身体でのプレゼンシングの贈り物の一つは、恐れで固まっていたエネルギーが精神的な明晰さや肉体的な機敏さ、そして感情的な気高さとして手にできるようになった時、ある変化が身体で感じられるということです。この変化が起こる時、私たちは恐れることは何もないのだと気づきます。恐れをプレゼンシングすることで、錬金術的な変容を生み出せるのです – 痛みや制限の入り口をくぐり抜け、創造性と安らぎの空間へと入っていくのです。

このプレゼンシングのニューズレターでは、これから数回にわたって恐れについて、また恐れが私たち自身と個人の関係性、またクライエントとの仕事などにどのような影響を与えるのかを見ていきます。恐れや疑念に圧倒されそうな時にプレゼンシングを実践したなら、これまでよりもずっと喜びが溢れ、平穏な感覚を自分のものとして感じられるようになる、私はそう信じています。

・恐れを抱擁し、召命されるところへ向かう

・どのように身体に恐れがあらわれるのか – ボディワーカーが感じられること

・私たちの文化における恐れの増大 – ケアに携わる人々ができること

・個人の恐れとプロフェッショナルとしての倫理 – どのようにして恐れの中にいるクライエントの役に立つか

・錬金術的な過程としての恐れとプレゼンス – 恐れをプレゼンシングすることへの報酬

・恐れの身体をプレゼンシングして痛みの身体(エクハルト トーレ)とのワークをする

・言い訳をしない – 外界のなにものも愛することとプレゼンシングを邪魔することはできない

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